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鎌倉宮

不意な用事で鎌倉の大塔宮(おおとうのみや)を訪ねた。

鎌倉駅から山間に京急バスで8分、その地の緑はとても色濃く

炎天下の中でもいにしえを思わせる涼しげな静寂につつまれていた。

バス停を降りてすぐに「鎌倉宮」はあった。

全く予期せず、ただならる堂々としたたたずまいに興奮したが、その由来は

これまで知らなかった。

 

看板の紹介には、とても興味のある時代の歴史上の事実が書かれている。

これは、思わぬめぐり逢い 有難くお参りさせて頂いた。

 

 

大塔宮は護良親王(もりよししんのう)の通称でもある。

鎌倉時代末期から建武の新政期の皇族・征夷大将軍であり、南北朝混乱の原因を作った後醍醐天皇の第三皇子(一説には第一皇子)であり、

父を補佐し、元弘の乱では鎌倉幕府の倒幕運動に武功を挙げた。

しかしやがて、父とのすれ違いから将軍を解任され、政治的な地位も失脚、

鎌倉のこの地(東光寺)に幽閉され、のちに宿敵であった足利尊氏の弟である足利直義の命により殺害された。

 

1869年(明治2年)武家から天皇中心の社会への復帰を目的とした建武中興に尽力した護良親王の功を称え、明治天皇がこの地(東光寺跡地)に造営を命じ御自ら宮号を「鎌倉宮」と名づけた社殿が造営された。

手水舎(ちょうずや)は感染対策の為、可愛らしく飾り立てられていた。

参拝が楽しくなる。

護良親王が幽閉されたと伝承される土牢が本殿奥の土手に

あったり、ゆかりの品々が展示される宝物殿には歴代の連合艦隊司令長官の書など多くの宝物も飾られる。

まさに見どころいっぱい

個人的な見解だが、建武中興十五社の一社として、当初より

神社本庁の包括下に入らず単立神社の道を歩んできた事が

豊かな表情を育んだのだろう。

他にも

吉野落城の際して忠義身代わりの逸話が残る村上彦四郎義光公を真に至誠純忠の勇士として祀った「村上社」前には境内の樹齢103年のケヤキの大木で彫り上げた厄除けの等身大鎧姿の武者像が存在する。「撫で身代わり様」

護良親王の没後約40年後に完成した「太平記」(一説に足利氏寄りの歴史観といわれる)では

足利尊氏の「大塔宮は帝位を奪うため諸国の兵を募っている」との後醍醐天皇への奏聞のくだりが

あるが、武勇に優れ人望も厚く、いち早く尊氏の二心を見抜いていた護良親王を排除したい尊氏と言われるまま流罪にして、その身柄まで足利氏に預けた後醍醐天皇の措置に、人々は再び朝廷の力が弱まり、武家が栄える前兆だろうと噂したという。

手水舎に飾られた赤獅子頭の意味がわかった。

護良親王(大塔宮)は戦のときは、獅子頭を兜に入れて出陣したという逸話が残る。

 

楠木正成、新田義貞らと共に鎌倉幕府を倒し、

建武の中興を成し遂げながら、足利尊氏の逆臣を見抜いていながら、その狡猾な謀略にはまり

帝の疎まれ遂には流罪の後に非業な死を遂げる。

その生涯は、源平合戦を勝利に導きながら、

兄、頼朝に疎まれ命を落した源義経のようだ。

 

歴史街道 鎌倉はさすがは奥深く、そこかしこにいにしえが生きている。

これを機に、もう一度歩いてみたい気持ちになった。

 

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