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「占領」の足取り

「占領の足取り」では

焼け野原の敵国日本をアメリカ本国の希望に沿う形に

壊して作り直そうとするGHQと従う日本政府の動きを年表にして紹介する。

(前編)は民生局が中心となった日本解体である。

  私見として影響を与えた人物を数名紹介した。

(後編)はレッド・パージ

「完全なる民主化(真白な国家)の追求」という本国では実現不可能な壮大な実験が始まる。

理想国家の創造主・虐げられた万民の解放者という一方的な正義の鉾を振りかざした占領政策から後半は「共産主義の駆逐」という排他的イデオロギーに基づいた西側陣営、反共の砦の構築というお題目にすり替わって行く。

 

万世一系、いにしえより脈々と続き、流れに任せゆっくり形造られた「国家」が一つの敗戦によりいいように壊され、戦勝大国アメリカの都合に合わせ造り変えられた様を紹介する。

激動の中で慌てて形造られ一方的に押し付けられた「正義」の危うさを今更ながら痛感している。

権力を継承しつつ、その意味がわからない現世の為政者達に印籠を渡し、主体的国家としての礎を築き直す新たな時代の幕開けに向えるような救世主の登場を、心底待ちわびる。

 

1945年

8月30日 マッカーサー来訪 厚木飛行場に到着

9月2日 降伏文書、調印

    三布告(占領政策最初の布告で9月3日に占領軍より国民に直接布告される計画だった)

    ・立法、行政、司法、の3権はマッカーサー権力の管理下、公用語は英語とする。

(原案)・司法権はGHQに属し降伏文書に反した者は軍事裁判により処罰する。

    ・日本円を廃止、B円(軍票)を日本国の法定通貨とする。

※日本政府側の交渉努力により翌日に迫った公表差し止め、後に白紙撤回まで勝ち取ったとされて

 いるが、占領統治の功名な駆け引きであって、これによりこの国の統治者が誰であるかを完全に

 思い知らされ、この後続く永い占領時代の主導権を完全に握られた。

 指導層の中では現在も続く深い従属意識の源となっている。

 

9月11日 東条英機陸軍大将ら39人に戦争犯罪人として逮捕命令。(天皇は除外)

絶対忠臣の立場から、開戦の間際に戦争回避を願う天皇の意を理解した東條は、対米強硬路線を即刻改め、和平に向け最大限譲歩に方針転換するが米ルーズベルト政権は自殺要求に等しいハル・ノートを突き付け、更に追い詰める。

最終的に交渉を断念するしかなく、その上奏中幾度も涙声になったといわれる。開戦日未明に首相官邸でひとり皇居に向かい号泣し、天皇に詫びる東條の姿があった。

東條英機

近衛内閣陸軍大臣として外交政策の弱腰を批判し、総辞職の要因となった後に、後継総理に押されて戦時内閣を指揮した

戦犯として絞首刑となる。


9月27日 天皇陛下がマッカーサー元帥を訪問

『敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』

 

命乞いを予想していたマッカーサーが天皇という存在を理解し敵ながら敬う心を抱いた契機となる

 同時に、今後の処遇について本国の意向通りに進める事の危険性を察知した瞬間でもあった。


 

10月4日 政治的・民事的・宗教的 自由に対する制限撤廃の覚書。

    ※天皇の扱い基本姿勢の表明と治安維持法撤廃・政治犯釈放・特高警察の罷免など

     大戦前に築かれた治安体制の破壊を指示

10月8日 天皇の立法権削減など憲法改正の12項目の指針を指示。

10月10日 政治犯3000人を釈放(内共産党員約220名)

10月15日 治安維持法・思想犯保護観察法など撤廃を公布

10月25日 憲法問題調査会を設置

10月30日 特高・教育関係者の追放を指示

11月6日 4大財閥解体の諸施策設定

11月18日 皇室財産凍結

11月21日 治安警察法廃止を公布

12月6日 近衛文麿・木戸紘一ら19人に戦争犯罪人として逮捕命令

近衛文麿

 1937年 昭和12年

6月 総理大臣就任

7月 日中戦争勃発

軍部を抑えられず、大本営が設置されて全体主義が加速する

1940年7月 第二次内閣組閣

8月 全政党解散 議会制政治の終焉

9月 日独伊三国同盟の締結

10月 大政翼賛会 結社

 

1941年7月 第三次内閣組閣

アメリカ 対日石油全面輸出禁止など制裁強化

9月 アジア宗主国イギリス・アメリカに対し最低限の交渉内容を決定。外交期限を定めて、受け入れられない場合は開戦を決意。

10月 アメリカ 拒否回答(日米交渉決裂)

「私は自身が無い自信のある人にやってもらわねばならん」発言。内閣総辞職。

結局後任を東條が継ぎ開戦に突入して行く。

1942年ミッドウェー海戦以降は民間の吉田茂らと共に積極的に和平運動に動くが全て失敗に終わる。

1945年9月 東久邇宮内閣 副総理格で入閣し

10月総辞職で私人となった後もマッカーサーの信認を受けていた為、戦犯になるとは考えてはいなかったが、一転11月にGHQの取り調べが始まると12月にはA級戦犯の逮捕状が出され、出頭の最終期限日 青酸カリで服毒自殺した。

木戸紘一

昭和天皇の側近として戦争回避に尽力をつくしたが敗戦後は戦犯として終身刑の判決を受けた。

(後に仮釈放)

鈴木貫太郎

昭和天皇の信任を受けた半面、軍部には疎まれた。

1936年

二・二六事件では三発被弾し命を取り留めた。

1945年4月

戦況悪化の責任を取り辞職した小磯内閣の後任を決める重臣会議

で天皇に「頼む」とまで言われ総理大臣を引き受けた。77歳での就任表明は「最後のご奉公」である。

7月27日未明、ポツダム宣言の内容が伝わると

no comment(ノーコメント)の姿勢が「黙殺」と伝わりreject(拒否)と報道された。

一説にトルーマンはこれをもって原爆投下の

決定をしたとされるが全くの捏造である。

8月6日広島原爆投下、9日長崎原爆投下、ソ連対日参戦、15日無条件降伏に至る間、老体による不眠不休の終戦工作が続く、10日・14日の聖断により降伏が決まると辞職した。



統帥権とは大日本帝国憲法下の日本における軍隊を指揮監督する

最高指揮権のこと。天皇大権のひとつで陸軍では陸軍大臣と参謀総長に

海軍では海軍大臣と軍令部総長に委託され、軍政権・軍令権に分割して政治家(大臣)と軍人(統帥部)が職務を分割し担った。

この考えの源流には、政治家だけが統帥権を握る事によって幕府政治が再興される可能性や、軍が政党の党利党略に利用される可能性を恐れた事が挙げられる。

歴史的には、南北朝時代に楠木正成が軍事に無知な公家によって作戦を退けられて湊川の戦で戦死。南朝衰退につながった逸話が広く知られていた事などが挙げられる。しかしながら軍事を政治が統制管理する事は維新の国家建設当初より当然と考えられてきた。

濱口雄幸

1929年(昭和4年)

第27代総理大臣就任

大蔵官僚→大蔵大臣のキャリアで主眼は経済政策であったが軍部をはじめ内外の反対を押し切り断行した金解禁及び軍縮政策がその後の時世を大きく貶めた。交際協調を声高に掲げ姑息な蔵相人事で的外れな政策を押し通し、任期中に

右翼組員の銃撃を受け翌年に亡くなる。

 

五・一五事件から関東軍の暴走など闇の時代へ日本をいざなった政治家の一人である。

ロンドン海軍軍縮会議(1930年1/21~4/22)

海軍の補助艦保有量を制限する国際会議

イギリス・アメリカ・フランス・イタリアと

日本の第一次大戦戦勝国で会議が持たれたが、フランス・イタリアは結局部分的参加に留まる

日本の濱口内閣は日露戦争の際に発行した国債の借換え時期を控えて軍事費の削減に躍起になっていた。希望の保有比率に届かないまま条約調印してしまった事、部分参加に留めなかった事を巡り政府の統帥権干渉問題にまで発展して与野党の政争が起きた。

議席数と権限を背景に天皇の諮問委員会である枢密院にまで手を廻して、強引に条約の批准にこぎつけたものの、濱口総理の政治手腕は醜く野党、世論の賛同を得れるものではなかった。

政争に統帥権を持ち出した事で後に軍部暴走を抑えられなり議会政治は終焉を迎える。



志賀重昂

明治19年南太平洋の諸島を10カ月にわたって巡り欧米列強の植民地化競争を目の当たりに視察した。

その後「政教社」を組織し国粋バイブル「日本人」を創刊。

「日本の旧態を守り続けろとは言わない。

ただし西洋文明は、咀嚼し消化してから取り入れるべきだ」という排他的とは縁遠い思想の下地理学の教鞭をとった。

国粋主義

幕末の尊王攘夷論を源流とし、明治政府が推進する極端な欧化政策を非難し日本本来の長所を重視する事を主張した。

排他的ナショナリズムとは違い、日本の文明を主体的に発展させる要素として西洋文明を選択的に摂取しようという流れで圧倒的な欧化主義の潮流の中でも伝統文化や生活様式を保存する主義を主張していた。

国民的道徳の実践を主張する日本主義と共に、伝統主義や天皇制擁護の立場から「右翼」の

行動原理となって社会主義の大衆運動に反目しつつ国家主義的イデオロギーに変貌して行く。



12月9日 農地改革に関する覚書。

12月15日 政府による神道(国家・神社)の保護・支援・保全・監督および広布の廃止覚書

12月17日 衆議院議員選挙法改正公布(婦人参政権)

12月19日 釈放政治囚に対する選挙権回復指令

12月22日 労働組合法公布

12月28日 宗教団体法撤廃、宗教法人令公布(信教の自由)

12月31日 日本歴史および地理授業の停止、および教科書の回収の覚書

1946年

1月1日 天皇 人間宣言

1月4日 公職追放政策開始

※GHQ指示による公職追放は1948年5月まで20万人を超えた。

1月29日 琉球列島、小笠原諸島などに対する日本の行政権停止

1月31日 占領政策、中国・ソ連の不参加を発表。憲法改正の見解を発表。

2月4日 GHQ民生局(GS)日本国憲法草案(GHQ草案)の起草作業を開始。

2月13日 日本政府サイドの憲法案の受け取りを拒否、GHQ草案が吉田茂外相に渡される。

2月17日 金融緊急措置令公布 即日施行 「新円」への切替が始まる。

        食料緊急措置令公布

2月18日 文部省の教科書認定権停止を発表

2月19日 刑事裁判権行使の覚書 ※これにより連合軍軍事裁判所が裁判権を行使始める。

     天皇陛下日本全国へ巡幸開始

2月20日 ソ連 千島、南樺太の領土編入を宣言(ヤルタ密約の行使)

2月21日 マッカーサー・幣原首相会談 GHQ憲法草案受け入れを要求

2月22日 GHQ憲法草案受け入れを閣議決定

 

3月5日 英国チャーチル元首相 「鉄のカーテン」演説

  ※3月13日 スターリン チャーチルを戦争挑発者と非難

3月23日 米国から輸入小麦製パン都民1人に2斤配給

3月24日 カリフォルニア米 初輸入船入港

 

 4月7日 幣原内閣打倒人民大会開催

    「民主憲法は人民の手で」をスローガンに約7万人が首相官邸デモ。

幣原喜重郎

1924年大正13年を皮切りに外務大臣を歴任し、1920年代の自由主義体制における国際協調路線は「幣原外交」と呼ばれた。

1930年代早々に軍部の圧力で政界を去る

「幣原外交」終焉は文民外交の終焉でもあり、以後は軍部が独断する時代が敗戦まで続く。

松本丞治

1906~9年(明治39~42年)ヨーロッパ留学後東京帝大教授

大正8年満鉄理事就任副総裁を務めた後で法制局長官・商工大臣を務め幣原内閣で国務大臣として入閣自ら憲法改正担当として草案を作成した。

1945年10月 東久邇宮内閣の総辞職を受けて内閣総理大臣に就任。本人は指名を嫌がったが吉田茂、天皇の説得を受け入れて政界に返り咲いた。1946年1月24日マッカーサーとの会談で平和主義・戦争放棄・皇室護持の考えを述べて憲法改正の新しい基本理念を示したとされるが後日に、保守的な松本国務相案のGHQ拒否がクローズアップされ、幣原内閣がGHQ草案を受け入れた事で「いいなり政策」の誹りを受けるが、GHQ草案の骨芯は自身の主張に合致したもので拒む理由が無かった。

悔やむべきは日本政府側代表の憲法問題調査会(松本委員会)の5カ月かけて造られた草案が、議論の余地もなくGHQに却下された事であり未来永劫に及ぶ自尊心の汚点となった事だ。

それは大正デモクラシーへの回避ともいうべき後進的な内容でマッカーサーには到底時代遅れで、受け入れがたい保守的なものであった。

学者肌が考える時世をくみ取れない堅物なものではあったが、欧化主義の段階的な受け入れの観点からは等身大といえるのかもしれない。

今となっては、善し悪しは議論の意味も無い。


 4月10日 新選挙法による衆議院議員選挙実施

※自由党第一党 党首 鳩山一郎 5月4日公職追放により5月14日後継を吉田茂が受諾する。

4月22日 幣原内閣総辞職(一か月政治的空白生まれる)

 

4月24日 主食遅配が深刻化 半月で飢餓状態と新聞報道

4月26日 人口調査による失業者数が発表される。

     完全失業者159万人 潜在失業者含め600万人

5月1日 メーデー11年ぶりに復活 宮城前広場50万人参集。

    広島・長崎で白血病増加、原爆後遺症の懸念

5月3日 東京裁判 開廷 ※極東軍事裁判(1948年11月まで)

  ※6月17日 主任検事「天皇は裁かず」発言

   これにより天皇戦犯論に終止符が打たれた。

5月13日 極東委員会(FEC)中間賠償取立て案を決定

     賠償取立ての対象として11財閥の施設を選定

5月18日 GHQ 200万人失業者救済の為、1946年度予算に公共事業費60億円計上を指令。

5月19日 食料メーデー開催 宮城前に25万人参集。

5月20日 マッカーサー「暴民デモ許さず」と食料メーデーに対する禁止声明。

5月22日 第一次吉田茂内閣成立

5月24日 昭和天皇 敗戦以来の玉音放送 食料危機に家族国家の伝統で対処するよう訴える。

6月5日 日本ローマ字会 漢字全廃推進を声明

6月7日 GHQ 東京にある洋風住宅の接収を通告。

6月9日 GHQ 日本警察制度に関する11項目を発表

7月6日 国名 「大日本帝国」から「日本国」へ改称

7月11日 文部省 ローマ字教育採用を通達

 

この月 戦争孤児・引き揚げ孤児など「家なき子」が急増

    GHQの琉球・小笠原諸島分割統治決定で沖縄人連盟が非日本人として扱われることに

    抗議デモ。

 

8月14日 吉田茂首相 ラジオ放送で「15日は再建出発の日」と演説。

8月15日 吉田茂首相 NHKラジオで「戦争を放棄する格好の機会」と発言。

     全国中学校優勝野球大会が復活。

 

8月23日 GHQ 輸入大豆による味噌などの配給を指示。

8月30日 配給小麦から赤カビ病中毒発生

9月2日 米国余剰小麦の輸入によるコッペパンが全国児童に配給される。

    翌年1月の学校給食スタートに向け日本民族の食文化操作始まる。

    小麦・大豆など余剰気味穀物・農作物の輸出消費市場として本格的に育成。

9月3日 満州 第一次引き揚げ孤児が佐世保に入港。

9月9日 生活保護法公布

9月11日 GHQ 連合軍将兵が日本人の財産に与えた損害の賠償請求権を否定。

9月23日 複員庁、集計の結果として海外残留者数207万人と発表。

9月24日 GHQ 財閥解体の具体的方針を発表。 

9月30日 三井・三菱・安田 財閥正式解散を決定。

 「占領の足取り」では

焼け野原の敵国日本をアメリカ本国の希望に沿う形に

壊して作り直そうとするGHQと従う日本政府の動きを年表にして紹介する。

(前編)は民生局が中心となった日本解体である。

  私見として影響を与えた人物を数名紹介した。

(後編)はレッド・パージ

 

 

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