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「神道」①

 

街中の赤い鳥居、田んぼの中のこんもりした森、山の頂の小さな社、全国至るところに神社はあります。

神社のある風景、それは映画やドラマでもおなじみの、ごく身近な、しかし日本にしか見られない独特の風景です。

このような神社を中心とした、日本の神々への信仰が神道です。神道は、日本人の暮らしの中から生まれた信仰といえます。

遠い昔、私たちの祖先は、稲作をはじめとした農耕や漁猟などを通じて、自然との関わりの中で生活を営んできました。自然の力は人間に恵みを与える一方、猛威もふるいます。人々は、そんな自然現象に神々の働きを感知しました。 また、連綿と続く生命の尊さを実感し、あらゆるものを生む生命力も神々の働きとして捉えたのです。

清浄な山や岩、木や滝などの自然物を神宿るものとしてまつり、やがてその場所に社が建ち、神社が誕生した。

このように日本列島の各地で発生した神々への信仰は、大和朝廷による国土統一にともない、形を整えました。

 

6世紀に仏教が伝来した際には、日本固有の信仰は、「仏教」に対して「神道」と表わされました。

神道の神々は、海の神、山の神、風の神のような、自然物や自然現象を司る神々や、衣食住や生業を司る神々、国土開拓の神々などで、その数の多さから八百万の神々といわれます。さらに、国家や郷土のために尽くした偉人や、子孫の行く末を見守る、祖先の御霊も、神として祀られました。

奈良時代にできた『古事記』(712年)『日本書紀』(720年)には、多くの神々の系譜や物語が収められています。

神道の信仰が形となったものが祭りです。祭りは、稲作を中心に暮らしを営んできた日本の姿を反映し、春には豊作を、夏には風雨の害が少ないことを祈り、秋には収穫を感謝するものなどがあり、地域をあげて行われます。

祭りの日は、神社での神事に加えて神輿や山車が繰り出したくさんの人で賑わいます神道の祭りを行うのは、神社だけではありません。

皇室では、天皇陛下が国家・国民の安寧と世界の平和を祈るお祭りを行っています。家庭では、神棚の前で家の安全と、家族の無事を祈ります。これも小さな祭りであり神道のもつ理念には、古代から培われた、日本人の叡智や価値観が生きています。

 

それは鎮守の森に代表される自然を守り、自然と人間とが、ともに生きてゆくこと、祭りを通じて地域社会の和を保ち一体感を高めてゆくこと、子孫の繁栄を願い、家庭から地域、さらには皇室をいただく日本という国の限りない発展を祈るなどです。

このような理念が、神々への信仰と一体となって神道が形づくられています。

神道には、神々をまつる環境として、清浄を尊ぶという特徴があります。

神社は常に清らかさが保たれ、祭りに参加する人たちは必ず心身を清めます。

これら神道の理念や特徴は、日本人の生き方に深く影響しているといえるでしょう。

 

神道は、日本の民族宗教といわれ、日本人の暮らしにとけ込んでいます。たとえば、初詣や厄除、初宮参りや七五三、結婚式や地鎮祭など、神道の行事は日常生活のいたるところに見かけることができます。

 

しかし、一般の日本人は、あまりにも身近なせいか、神道について知らないことが多いのも事実です。

【神道の起源】

神道の起源はとても古く、日本の風土や、人の生活習慣に基づき自然に生じた神観念である。

このため、キリスト教や、仏教のような開祖が存在せず、縄文時代を起点に、弥生時代から古墳時代にかけて、

その原型が形成したとされています。

 

【神道と仏教の違い】

・神道は「地縁・血縁」で結ばれた共同体(部族や村)を守ることを目的に信仰されてきた。

・仏教はおもに、人々の安心立命や魂の救済、国家鎮護を求める目的で信仰されてきた。

 

【神道の初見】

 日本における「神道」という言葉の初見は『日本書紀』 飛鳥時代 第31代:用明天皇紀(在位585年~587年)にある「天皇仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまふ」であるが、このように、外来の宗教である仏教と対になる日本固有の信仰を指したものだった。

 

【伊勢派と出雲派】

明治8年(1875年)神道事務局が設けられたが、

「祭神論」をめぐって伊勢派と出雲派が別の道を辿る。

 

伊勢派ー日本全国の95%が加入している神社本庁系の神社

出雲派ー出雲大社系の神社

出雲大社の宮司は千家(せんげ)家という名門で、 皇室に継ぐ旧家中の旧家で日本最古の苗字を名乗る。明治時代の宮司は千家尊福 (せんげたかとみ) 。

 

神道事務局は、神殿における祭神として、造化三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)と (天照大神)の四柱を祀ることとした。

その中心を担っていたのは伊勢神宮大宮司田中頼庸ら「伊勢派」の神官であった。 これに対し千家尊福を中心とする「出雲派」は「幽顕一如」を掲げ、祭神を大国主大神を加えた五柱にすべきとした。

「出雲派」は「顕と幽、見える世界と見えざる世界、生と死、これら表裏一体である」として、「顕界」の主神たる天照大神と「幽界」の主神たる大国主神を同じく祀るよう主張した。

「伊勢派」天照大神は顕幽両界を支配する「天地大主宰」であり、他の神々はその臣下にすぎないと主張するなど、両派は真っ向から対立。

果てには、「出雲派が神代より続く積年の宿怨を晴らさんとしている」「皇室に不逞な心を持っている千家尊福を誅殺すべし」など、様々な風説が飛び交った。

 

出雲派の主張は多くの神道者・国学者から支持を得、また伊勢派の多い神道事務局内にも尊福を支持するものが出るなど、形勢は出雲派に傾きつつあった。危機感を抱いた伊勢派は、内務省や宮内省などに働きかけ、勅裁を得るべく工作を図った。その結果1881年2月に開かれた「神道大会議」で、「神道事務局においては宮中斉祭所に奉斎される天神地祇賢所、歴代天皇の御霊を遙拝する」という勅裁が下され、これにより祭神論争は伊勢派の勝利として決着をみることとなった。 

【神社本庁】(明治神宮に隣接)

神社本庁は伊勢神宮を本宗と仰ぎ、全国8万社の神社を包括する組織として昭和21年(1946年)に設立された。これにより、GHQの干渉(弾圧)を免れ、一般宗教法人として再スタートしました。

 

【平成から令和へ】

天皇の御代替りに際しては、様々な儀式が執り行われますが、そこには神々の時代の精神が息づいています。

大嘗祭(だいじょうさい)をはじめとする皇位継承の諸儀式は、神代より現代にまで受け継がれてきた我が国の精神の継承の儀式でもあるといえます。

御代替りにおいて、行われる諸儀式は、皇室・国家を挙げた重儀で、世界に類例のない誇るべき日本の文化といえます。

これらを通じて私たち国民は天皇陛下との結びつきを改めて実感することができるのではないでしょうか。

新帝陛下の御代において、とり行われる「大嘗祭」は、令和元年11月14日、15日。

 

【大嘗祭(だいじょうさい)】

毎年秋天皇陛下は、その年の「新穀」を、

御祖先である天照大御神をはじめ、神々にお供えし感謝を捧げる「新嘗祭(にいなめさい)」を宮中で御斎行になります。

 

陛下が御即位後初めて行われる新嘗祭が

「大嘗祭(だいじょうさい)」です。

大嘗祭は、天皇一代に一度行われる祭祀で、御位につかれるうえで不可欠なものであり、数ある祭祀の中で最高の重儀とされています。

【日本神話】

日本神話の神々は、連綿と信仰の対象とされ続けており、その性質を失った多くの国々の神話と異なる。

日本神話と呼ばれる伝承はほとんどが、 『古事記』『日本書紀』および『風土記』の記述による。

本来、日本各地には「出雲」を始めとして、何らかの信仰や伝承があったと思われるが、ヤマト王権の支配が広がるにつれていずれもが「国津神(くにつかみ)」「奉ろわぬ神」と形を変えられて「高天原神話」に統合された。

後世まで中央に支配されなかった「アイヌや琉球」には、独自色の強い神話が存在する。

記紀において、神代(神の時代、神話時代)は神武天皇:即位(紀元前660年)以前までとされる。

【天地開闢(てんちかいびゃく)】

天地・世界が初めて生まれたときのことを示す。

【古事記】(712年編纂)

最初に、高天原に三柱の神「造化の三神」が生まれた。

続いて二柱の神が生まれた。

「別天津神(ことあまつかみ)」以上、五柱の神々。

次に、二柱の神が生まれた。

続いて五組十柱の神々が生まれた。それぞれ男女の対の神々。

七組十二柱を「神世七代(かみのよななよ)」という。

 

【日本書紀】(720年編纂)

太古、天地は分かれておらず、互いに混ざり合って混沌としていた。しかし、その混沌の中から、清浄なものは上昇して天となり、重く濁ったものは大地となった。そして、神が生まれる。 天地の中に葦の芽のようなものが生成され、神となる。

国常立尊(くにの とこたち)

国狭槌尊(くにのさつち)

豊斟渟尊(とよくむぬ )

これらの神々には性別がなかった。

次に四組八柱の神々が生まれた。四組の神々は男女の対神

埿土煮尊(うひぢに)・沙土煮尊(すひぢに)

大戸之道尊(おほとのぢ)・大苫辺尊(おほとまべ)

面足尊 (おもだる)・惶根尊(かしこね)

伊弉諾尊(いざなぎ)・伊弉冉尊(いざなみ)

以上、七組十一柱を「神世七代」という。

【国産み(くにうみ)】

日本の国土創世を伝える神話である。

日本神話「大八島国(おおやしまのくに)」形成。

 

伊邪那岐(イザナギ)・伊邪那美(イザナミ)の二柱の神は、別天津神(ことあまつがみ)たちに、漂っていた大地を完成させるよう命じられる。

別天津神たちは「天沼矛(あめのぬぼこ)」を二神に与えた。二神は天浮橋(あめのうきはし)に立ち、 天沼矛で、渾沌とした大地をかき混ぜる。矛から滴り落ち積もって淤能碁呂島(おのごろじま)となった。二神は淤能碁呂島に降り、結婚する。まず淤能碁呂島に「天の御柱(みはしら)」と「八尋殿(やひろどの「広大な殿舎」)」を建てた。

二神は性交するが、女性の伊邪那美の方から、男性の伊邪那岐を誘った為に、ちゃんとした子供が、生まれなかった。二神は最初の子供である水蛭子(ひるこ)を葦舟に乗せて流した。次に、アハシマが産まれた。

が伊邪那岐・伊邪那美の子供の内に数えない。

二神は淤能碁呂島に戻り、今度は男性の伊邪那岐から誘って再び性交する。

ここから大八島を構成する島々を生み出していった。

 

①淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま):淡路島

②伊予之二名島(いよのふたなのしま):四国

胴体が1つで顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。

 愛比売(えひめ):伊予国

 飯依比古(いひよりひこ):讃岐国

 大宜都比売(おほげつひめ):阿波国(食物神でも登場)

 建依別(たけよりわけ):土佐国

③隠伎之三子島(おきのみつごのしま):隠岐島

 別名は天之忍許呂別(あめのおしころわけ)

④筑紫島(つくしのしま):九州

胴体が1つで顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。

 白日別(しらひわけ):筑紫国

 豊日別(とよひわけ):豊国

 建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ):肥国

 建日別(たけひわけ):熊曽国

⑤伊伎島(いきのしま):壱岐島

 別名は天比登都柱(あめひとつばしら)

⑥津島(つしま):対馬

⑦佐度島(さどのしま):佐渡島

⑧大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま):本州

 

以上の八島が最初に生成されたため、

日本を大八島国(おおやしまのくに)という。

 

二神は続けて6島を産む。

吉備児島(きびのこじま):児島半島

 (半島となったのは江戸時代、以前は島だった)

小豆島(あづきじま):小豆島

 別名は大野手比売(おほぬでひめ)

大島(おほしま):屋代島(周防大島)

 別名は大多麻流別(おほたまるわけ)

女島(ひめじま):姫島

 別名は天一根(あめひとつね)

知訶島(ちかのしま):五島列島

 別名は天之忍男(あめのおしを)

両児島(ふたごのしま):男女群島

 別名は天両屋(あめふたや)

【神産み(かみうみ)】

『日本神話』にて、イザナギ・イザナミが「国産みの後」に神々を生み出したこと。

 

イザナギ・イザナミは、さまざまな神々を生み出したが、火の神:「火之迦具土神」(ひのかぐつちのかみ)を出産した際に、イザナミは火傷で死ぬ。

 

イザナギは怒って「火之迦具土神」(ヒノカグツチ)を十拳剣で切り殺した。

剣からしたたる血からも神々が生まれる。イザナギはイザナミに再び、会うために「黄泉の国」へ赴くが、すでにイザナミは変わり果てた姿になっていた。その姿に、おののいたイザナギは逃げた。

イザナギは「黄泉の国」のケガレを清めるために禊ぎをしたが、このときもさまざまな神々が生まれた。

最後に生まれた三柱の神が、

「天照大御神(日の神、高天原を支配)」

「月読命(月の神、夜を支配)」

「須佐之男命(海を支配)」である。

イザナギは世界の支配を三神に命じられた。

須佐之男命(スサノオ)は、根国(異界)へ行く前に、「高天原(たかあまはら)」へと向かう。天照大御神 (アマテラス)は高天原を奪いに来たのかと勘違いして、弓矢を携えてスサノオを迎えた。

スサノオはアマテラスの疑いを解くために誓約で身の潔白を証明した。

(アマテラスとスサノオの誓約)

「五柱の男神」(アマテラスの子)が生まれたが。

アメノオシホミミ ー天孫ニニギの父

アメノホヒ ー出雲国造家の祖

アマツヒコネ

イクツヒコネ 

クマノクスビ 

「宗像三女神」(スサノオの子)が生まれた。

タキリビメ ーオオクニヌシと結婚

イチキシマヒメ

タギツヒメ 

スサノオが高天原で乱暴を働いたため、

恐れたアマテラスは天石戸に隠れた。

世界にはたちまち暗黒が広がった。

神々は計略でアマテラスを天石戸から出すと、世界は再び光に包まれた。

スサノオは下界に追放された。

スサノオは出雲国に降り立ち、

八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)を退治する。

このとき、尾を切ると剣の刃が欠け、尾の中から大刀が出てきた。この大刀をアマテラスに献上した。これが「草那藝之大刀(クサナギノツルギ)」である。

 

ヤマタノオロチを退治したスサノオは、

櫛名田比売(クシナダヒメ)と結婚する。

スサノオの子孫である 大穴牟遅神(大国主)は八上比売(ヤカミヒメ)と結ばれるが、それを妬んだ八十神に迫害される。難を逃れ根国でスサノオの試練を乗り越えるとスサノオの娘、須勢理毘売命 (スセリビメ)を娶って、大国主神(オオクニヌシ)となる。

 

沼河比売(ヌナカワヒメ)や 多紀理毘売命(タキリビメ)と結婚し、多くの御子神を生み少名毘古那神(スクナビコナ)や「三輪の神」(オオモノヌシ)と「葦原中国(アシハラノ ナカツクニ)」の国づくりを始めた。

高天原の神々は葦原中国を統治するのはアマテラスの子孫だとした。何人かの神を出雲に遣わしたが、いずれもオオクニヌシに寝返ったり、寝返った神に殺されたりと交渉は遅々として進まず、最終的に、建御雷神(タケノミカズチ)武神二柱を派遣した。オオクニヌシの子の兄・事代主神(コトシロヌシ)に国を譲らせ、果敢に抵抗した、弟・建御名方神(タケミナカタ)をも降服させる。

 

御子神二柱が要求に応じたため、オオクニヌシは自らの宮殿として「出雲大社」建設と、引き換えに、天の神に国を譲ることを約束する。

天照大御神の孫である邇邇芸命(二ギギノミコト)は日向(高千穂峰)に降臨した。「天孫降臨」

このときアマテラスから授かった「三種の神器」を携えた。邇邇芸命(二ギギ)は木花之佐久夜毘売(コノハナクサヤヒメ)と結婚し御子が産まれる。

火照命(ホデリ)火須勢理命(ホスセリ)火遠理命(ホオリ)三柱の天津神の子が生まれた。

火照命(ホデリ)は海佐知毘古(うみさちびこ)漁師で大小の魚をとり、火遠理命(ホオリ)は山佐知毘古(やまさちびこ)猟師で大小の獣をとっていた。

山幸は兄の海幸に互いの道具の交換を提案した。海幸は三度断ったが、少しの間だけ交換することにした。山幸は兄(海幸)の釣針(海佐知)で魚を釣ろうとしたが1匹も釣れず、しかもその釣針を海の中になくしてしまった。兄の海幸も獲物をとることができず、「山佐知も己が佐知さち、海佐知も己が佐知さち(山の幸も海の幸も自分の道具でなくては得られない)」と言って自分の道具を返してもらおうとした。

山幸が釣針をなくしたと告げると、海幸は山幸を責め取り立てた。

山幸は自分の十拳劔から1000の釣針を作ったが、海幸は「やはり元の釣針が欲しい」として受け取らなかった。

山幸が海辺で泣き悲しんでいると、塩椎神(しおつちのかみ潮流の神)がやって来た。山幸が事情を話すと、塩椎神は小船を作って山幸を乗せ綿津見神(海神・わたつみ)の宮殿へ行く。

綿津見神の宮殿に着き、そこで待っていると、海神の娘の豊玉毘売命の侍女が水を汲みに外に出て来た。山幸が水を求めたので、侍女が水を器に入れて差し出すと、山幸は水を飲まずに首にかけていた玉を口に含んでその器に吐き入れた。すると玉が器にくっついて離れなくなったので、侍女は玉のついた器を豊玉毘売命に差し上げて、事情を話した。不思議に思って外に出た豊玉毘売命は、山幸を見て一目惚れした。父である海神も外に出て、そこにいるのが天孫邇々芸命(二ギギ)の子の「虚空津日高(そらつひこ)山幸の尊称」であると言い、すぐに豊玉毘売命と結婚させた。

 

海神の元で三年間暮した。三年たって、山幸はここに来た理由を思い出して、深い溜息をついた。海神が溜息の理由を問うたので山幸は事情を話した。

海神が魚たちを集め、釣針を持っている者はいないかと問うと、赤鯛の喉に引っかかっているとわかった。

海神は釣針と鹽盈珠(しおみちのたま)・鹽乾珠(しおひのたま)を山幸に差し出し、「この釣針を兄に返す時『この針は、おぼ針、すす針、貧針、うる針(憂鬱になる針、心が落ち着かなくなる針、貧しくなる針、愚かになる針)』と言いながら、手を後に回して渡しなさい。兄が高い土地に田を作ったらあなたは低い土地に、兄が低い土地に田を作ったらあなたは高い土地に田を作りなさい。兄が攻めて来たら鹽盈珠で溺れさせ、苦しんで許しを請うてきたら鹽乾珠で命を助けなさい」と言った。

 

そして和邇(わに/鮫)に乗せて送って差し上げた。その和邇は今は佐比持神(さいもちのかみ)という。山幸は海神に言われた通りに釣針を返し、言われた通りに田を作った。

海神が水を掌っているので、海幸の田には水が行き渡らず、海幸は貧しくなっていった。さらに海幸が荒々しい心を起こして攻めて来た。すると山幸は塩盈珠を出して溺れさせ、海幸が苦しんで許うと、塩乾珠を出して救った。これを繰り返して悩み苦しませると海幸は頭を下げて、山幸を昼夜お守りすると言った。

豊玉毘売命は海宮で懐妊したが、天神の子を海の中で産むわけにはいかないとして陸に上がってきた。浜辺に産屋を作ろうとしたが、茅草がわりの鵜の羽を葺き終えないうちに産気づいたため産屋に入った豊玉毘売命は、「他国の者は子を産む時には本来の姿になる。私も本来の姿で産もうと思うので、絶対に産屋の中を見ないように」と山幸に言う。

しかし、山幸はその言葉を不思議に思い産屋の中を覗いてしまう。そこに豊玉毘売命が姿を変えた八尋和邇(やひろわに)が腹をつけて蛇のごとくうねっているのを見て恐れて逃げ出した。

豊玉姫は、山幸に覗かれたことを恥じて、生まれた子を置いて海に帰ってしまう。

生まれた御子を天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうかやふきあへず)と言う。初代:神武天皇の父親である。

【薩摩隼人】

隼人(はやと)とは、古代日本において、阿多・大隅(現在の鹿児島県本土部分)に居住した人々。

日本神話では熊曾や熊襲(クマソ)と表記される。

日本書紀には海幸が隼人阿多君(クマソの首領)の始祖であり「隼人」は火照命(ホデリ)の末裔であるとされる。風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗したとされる。

「海幸山幸」の物語は、「隼人」とヤマト王権(皇族一派)との抗争を描いたものとされる。「隼人」は、ヤマト(朝廷)の支配下に組み込まれ、律令制に基づく官職のひとつとなった。兵部省の被官、隼人司に属した。

百官名のひとつとなり、東百官には、隼人助(はやとのすけ)がある。

【豊玉毘売命(トヨタマヒメ)】

海神(わたつみ)の娘で、竜宮に住まいする。

神武天皇(初代天皇)の祖母であり、天皇の母玉依姫(タマヨリヒメ)の姉にあたる。

 

海神(わたつみ)とは「琉球王」をさし、姫で姉の「トヨタマヒメ」と山幸は結婚、産まれた子と姫で妹の「タマヨリヒメ」が結婚して、「皇室の祖」である神武天皇が誕生する。

これは、九州地方南部を納めた神武天皇が、 琉球とも同盟を結び、抵抗勢力(隼人)を制圧九州地方の全域に勢力を拡大して、ここから「神武東征」の物語につながって行くのです。

 

日本人のルーツにも関わる話しなので「日本人はどこからきたの?」もご覧ください。

神道の信仰が形となって表れるのは、やはり神社だろうか・・・代表的なものの由来を学んでみる。

 

 

【八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)】

清和源氏、桓武平氏など、全国の武家から「武運の神(武神)」「弓矢八幡」として崇敬を集めた。

誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれて、応神天皇と同一とされる。早く神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され、神社内に神宮寺が作られた。

八幡神は応神天皇(誉田別命)の神霊で、欽明天皇32年(571年)に初めて宇佐の地に示顕したと伝わる。

 

応神天皇(誉田別命)を主神として、比売神、応神天皇の母(神功皇后)を合わせて八幡三神として祀っている。また、八幡三神のうち、比売神や、神功皇后に代えて仲哀天皇や、武内宿禰、玉依姫命を祀っている神社も多くあり、安産祈願の神という側面(宇美八幡宮など)もある。

【比売神(ひめがみ)】

アマテラスとスサノオとの誓いで誕生した宗像三女神、多岐津姫命(たぎつひめ)・市杵嶋姫命(いちきしまひめ)・多紀理姫命(たぎりひめ)の三柱。筑紫の宇佐嶋に天降られたと伝えられている。

宗像三女神は宗像氏(九州北部の旧氏族)ら海人集団の祭る神であった。

それが神功皇后の三韓征伐(朝鮮遠征)の成功により、宗像氏らの崇拝する宗像三女神は神として崇拝を受けたと考えられる。また、八幡神の顕われる以前の古い神、地主神であるともされている。比売神(ひめがみ)は八幡神の妃神、伯母神、あるいは母神としての玉依姫命(たまよりひめ)や、応神天皇の皇后である仲津姫命とする説がある。

『東大寺要録』『住吉大社神代記』に八幡神を応神天皇とする記述が登場することから、奈良時代から平安時代にかけて応神天皇が八幡神と習合し始めたと推定される。

比売神はヒミコやアマテラスであるとう異説やシラヤマヒメという異説も登場している。

【応神天皇】誉田別尊(ほんだわけのみこと)

父:仲哀天皇(第四皇子)母:神功皇后

神功皇后の三韓征伐の帰途に生まれたとされる。

仲哀天皇が崩御して十月十日後、「胎中天皇」という異名が示す通り、生まれながらの君主であった。

 

応神天皇は後に男系断絶した仁徳天皇皇統と現在まで続く継体天皇皇統の共通の男系祖先である。

そのため後世に「皇祖神」として奉られ、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称された。

平安時代後期以降は清和源氏や桓武平氏など皇別氏族の武家が武功を立てる際に氏神として大いに神威を発揮したことで武神「弓矢八幡」として崇敬を集めた。

【神功皇后】(じんぐうこうごう)

住吉三神とともに住吉大神の1柱として、また応神天皇とともに八幡三神の1柱(祭神)として信仰される。

武家社会の神である八幡神の母にあたる神であり、数多くの武人が「神功皇后」を崇拝していた。

有名なのが八幡太郎こと源義家である。また八幡神と同じく、その言い伝えは九州はもとより関東から近畿の大津や京都や奈良や大阪の住吉大社、瀬戸内海を挟んで広島や岡山、四国と、日本中に数多く存在する。今でも全国各地で「神功皇后の三韓征伐」を祝うための山車が存在しており、業績をたたえる祭りが多い。

 

大分県の宇佐神宮、大阪府大阪市の住吉大社をはじめ、福岡県福津市の宮地嶽神社、福岡県大川市の風浪宮、京都市伏見区の御香宮神社などいくつかの神社の祭神となっている。所縁ある福岡市の香椎宮や筥崎宮、福岡県宇美町の宇美八幡宮、壱岐市の聖母宮でも祀られている。

【伊勢信仰(新明神社)】(しんめいじんじゃ)

天照大御神(アマテラス)を主祭神とし、伊勢神宮内宮を総本社とする神社である。

神明社・神明宮・皇大神社・天祖神社などともいい、通称として「お伊勢さん」と呼ばれることが多い。

 

神社本庁によると日本全国に約5千社、伊勢信仰に分類される神社は、全国2位(4425社)であるという。

祭神の天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、太陽を神格化した神であり、皇室の祖神(皇祖神)とされているため、農耕儀礼と密接に結びつき広く信仰を集めた。

古代においては皇祖神として、天皇、皇后、皇太子以外の奉幣は禁止されたが、中世に入り朝廷が衰微するに伴い、伊勢神宮の信者を獲得し各地の講を組織させる御師が活躍し、皇室のためだけの存在から日本全体の氏神・鎮守としての存在へと神社の性格は大きく変わった。また、布教とともに各地の有力者による神領(御厨)の寄進が行われ、その地に伊勢神宮の祭神が分霊され、神明神社が広範囲に分布することになる。神道側の最高神とされたことなどにより、近世に至り一般民衆の間にも伊勢信仰が盛んになると、新田開発の際に神明神社を創建することが盛んになった。その祭事はほぼ伊勢神宮と同じであり、神使も鶏である。鳥居の形は主に「神明鳥居」であり、素朴な形式で全体的に直線的である。建築様式は神明造であることが多い。

【天神信仰(てんじんしんこう)】

天神(雷神)に対する信仰のことである。

特に菅原道真を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする神道の信仰のことをいう。

 

本来、天神とは国津神に対する天津神のことであり、特定の神の名ではなかったが、道真の怨残る没後すぐに、「天満大自在天神」(てんまんだいじざいてんじん)という神格で祀られ、つづいて、清涼殿落雷事件を契機に、道真の怨霊が、北野の地に祀られていた火雷神と結び付けて考えられ火雷天神(からいてんじん)と呼ばるようになり、後に火雷神は眷属として取り込まれ新たに日本太政威徳天(にほんだいじょういとくてん )などの神号が確立することにより、さらには、実道権現(じつどうごんげん)などとも呼ばれ、『渡唐天神』『妙法天神経』『天神経』など仏教でもあつい崇敬をうけ、道真の神霊に対する信仰が天神信仰として広まった。

【菅原道真】

藤原時平の陰謀によって大臣の地位を追われ大宰府へ左遷された道真は失意の中没した。その後、疫病がはやり、日照りが続き、また醍醐天皇の皇子が相次いで病死した。

清涼殿が落雷を受け多くの死傷者が出た。「清涼殿落雷事件」これらが道真の祟りだと恐れた朝廷は罪を赦すと共に贈位を行った。事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。

稲荷神(いなりのかみ)

稲を象徴する穀霊神・農耕神。

「稲荷」とは、食物の神(ウカノミタマ)、キツネ(御食津神)、油揚げ、稲荷寿司、 旅芸人が町回りで立てる細長い旗などを指す稲荷大明神、お稲荷様、お稲荷さんという。「稲成り」の意味だったものが、稲を荷なう神像の姿から後に「稲荷」の字を当てた。 

もとは、渡来民の「秦氏」から伝わった 氏神的な稲荷信仰であり、「秦氏」の勢力拡大によって信仰も広まっていった。

 

「田の神」の祭場は狐塚(キツネを神として祀った塚・キツネの棲家の穴)だったと推測されるが、近世には、京都の伏見稲荷を中心とする信仰が広まり、狐塚に稲荷が祀られるようになった。

五穀をつかさどる神「ウカノミタマ」と稲荷神が同一視されることから、伏見稲荷大社を含め、多くの稲荷神社では「ウカノミタマ」を主祭神としている。

熊野信仰「熊野三山(くまのさんざん)」

熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3つの神社の総称。約3千社ある熊野神社の総本社である。

 

熊野の地名が文献に最初に現れるのは『日本書紀』の神代記で、伊弉冉尊(イザナミ)が死んだとき熊野の有馬村(花窟神社)に葬られたという記述がある。

 

信仰解説の途中だが、「神道」①はここで終わる。

 

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