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韓民族・儒教・朱子学

儒教は孔子を始祖とする思考・信仰の体系。

紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上強い影響力を持つ。

 

朝鮮半島では李氏朝鮮(1392-1910年)時代に国教となり、韓民族に広く浸透した。

孔丘(孔子)BC551年~BC479年

春秋時代の周末 魯国に生まれた。

 

当時は実力主義が横行し「身分制秩序」が解体されつつあった。周初への復古を理想として「身分制秩序」の再編と、仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは、孔子の思想を奉じて、孔子教団を作り、儒家として「諸子百家」の一家をなした。その語録は『論語』にまとめられた。

春秋戦国時代、

国同士が戦うなかで、武力によって他者を支配しようとする覇道を批判して、

君子の徳によって、政治をおこなう王道で天下を治めるべきだと主張しました。

為政者が理想の政治を実現するための

思想哲学です。

 

儒教の教え「五常」と「五倫」

人は、「仁・義・礼・智・信」からなる「五常」の徳目を守ることで「五倫」と呼ばれる「父子・君臣・夫婦・長幼・朋友」の関係を維持するよう努めなければならない。

⁂「東アジアにおける倫理観の基本になっている考え方」

 

「仁」は、人を愛し、思いやること。「五常」のなかでも最高の徳目としていました。

「義」は、利や欲にとらわれず、世のため人のために行動すること。

「礼」は、謙遜し、相手に敬意を払って接すること。

「智」は、偏らずに幅広い知識や知恵を得て、道理をわきまえることで善悪を判断する。「信」は、人を欺かず、信頼を得るよう常に約束を守り、嘘をつかず、誠実であること。

5つの教えを守れば、父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の人間関係がうまくいくという考え。

 

「 儒教の弊害」

為政者が理想の政治を実現するための

思想哲学です。

教え自体は納得がいくもので、このような徳目に従って国家が運営されれば、

理想的な世になるだろうと考えられます。

(「こうあるべき」という教え)

 

現実は、うまくいくことばかりではなく、その教えが、多くの弊害を生みました。

 

たとえば、「親を敬うことが奨励されています。」

親が亡くなった際、喪に服す期間が3年にもおよび、ボロボロに痩せ衰える人が続出して、その姿が周囲から賞賛されるようになると、喪に服すことが、パフォーマンスと化した。

 

また、「同族を重んじる」儒教では、一族の誰かが殺されれば報復は当然とされました。報復されないためには、相手の一族を皆殺しにする必要があります。

死刑をする際には「三族皆殺し」という、「父方の一族、母方の一族、妻の一族」すべてを殺してしまうケースがあったそうです。

 

儒教では「上下の秩序を重んじます。」すると上の者には媚び、下の者には傲慢に接するという差別意識が生まれやすくなってしまうのです。加えて、長幼の序を重んじるため、たとえ長男が無能で次男が有能だったとしても、後継者になるのは長男。努力をしてもしなくても結果は変わらず、競争が起こりづらくなります。

 

このように、儒教が掲げている教えは素晴らしいものである一方で、誰もが孔子が求めるような高潔な存在になれるわけではなく、実践にあたってはさまざまな問題が生じることとなりました。

朱子学とは、南宋(1127年 - 1279年)の朱熹(しゅき)によって再構築された「儒教」の新しい学問体系です。 中国では程朱学「程朱理学・程朱学派」と呼ばれます。

 

朱子学は13世紀には朝鮮に伝わり

李氏朝鮮王朝の国家の統治理念として用いられた。

李氏朝鮮は高麗の時代に国教であった仏教を排して、 朱子学を唯一の学問(官学)とした。

その後の、朝鮮の文化に大きな影響を与えている。

 

16世紀には、李退渓、李栗谷の二大儒者が現れ、朱子学を朝鮮人に根付かせた。

日常生活に浸透した朱子学を思想的基盤とした「両班」は、知識人・道徳的指導者を輩出する朝鮮の「身分階層」に発展した。

 

朱熹の「文公家礼」(冠婚葬祭手引書)を、徹底的に制度化し、朱子学の研究が精密を極めた。

朱子学への純化が他の思想への「耐性」の無さを招き、朝鮮の近代化を阻む一要因となったとする見方もある。

朱子学の基本は、世の中すべての「もの・事柄」は「理」と「気」の2つからなるとする「理気二元論」というものです。

 

「理」は万物が世に存在する根拠を指す。「気」は万物を構成する物質を指します。

 

両者はまったく別の存在ですが、互いに、単独では存在することができず、付かず離れずの距離で相互に作用しあう「不離不雑」の関係とされています。

 

「気」は常に運動しているもので、運動量の大きな時を「陽」、小さな時を「陰」と呼びました。「陰陽」の2つの気が凝集して火・土・木・金・水の「五行」となり、その組み合わせによって万物が生み出されるとしたのです。

 

「理」は根本的なもので、これらの「気」の運動に秩序を与える存在と考えられました。

 

「理気二元論」から朱熹が導き出したのが「性即理説」です。

「性」は人間の本質で、静かな状態のもの。「性」は「理」であるとしました。

しかしこの「性」が動くことで「情」となり、動きが激しくなってバランスを崩すと「欲」になると考え、「情」は「気」であるとしています。

また「欲」は悪であり、人は絶えず「情」をコントロールし「性」に戻す努力をする必要があると説いているのです。

朱子学は朱熹の本来の思いとは離れて、

成績のよい者が優遇される学歴・官僚社会を生み出すもととなり、統治する側に、都合のよいものとされ、社会の秩序を統制するために利用されるようになってしまいます。

 

古来より中華思想は、「諸子百家」と呼ばれるほど、数多くの思想や学説が許容され社会が発展してきたという歴史がありました。

しかし朱子学が広がると、それ以外の学問が排斥されるようになり、思想統制の時代へと変わったのです。その結果、社会の停滞や、ゆるやかな弱体化へ繋がったと指摘する専門家もいます。

朝鮮においても同様で、

朱子学を学んだ知識人層「両班(やんばん)」は、王族に次ぐ身分階層となり、国家は、仏教だけでなく、同じ儒教の一派である「陽明学」さえも異端として弾圧しました。

 

朝鮮では、中国以上に朱子学にもとづく社会の統制が強固になり、それがかえって朝鮮の近代化を阻む要因となったともいわれています。

【陽明学】

朱子学と対比されるのが、

王陽明が起こした「陽明学」です。

 

朱子学が唱える「性即理」に対し陽明学は「心即理」という考え方を唱えています。

 

「心即理」とは

朱子学が心を「性」と「情」に分け、

   「性」こそ「理」としたのに対して

心は分けるものではなく「心そのもの」こそが「理」だとました。

朱子学は「知の学問」。 対して、陽明学は「心の学問」ともいわれており、

権威に従い、秩序を重んじる朱子学が統治者に好まれたのに対し、

権威に盲従するのではなく、自分の責任で行動する心の自由を唱えた陽明学は、

自己の正義感に捉われ、秩序に反発する「革命思想家」に好まれる傾向がありました。

 

日本においても、大塩平八郎や吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛などが、

陽明学の影響を強く受けていたといわれています。

画像の資料は、「人類の起源は韓民族だ」という理想の下に教えられた教材です。

 

「こうあるべき!」という強い理論・哲学に武装された心は恐ろしい「思考・行動」を生み出します。

 

儒教の国 韓国では、

現在でも「上下関係」は極めて重要です。

 

儒教の専門家達は、韓国人の日本に対する深層心理を

「文明を日本に与えた韓国は兄で、日本はいつまでたっても弟で、兄にはなれない」と、説明します。韓国が世界に向けて行っているプロパガンダは、「韓国が日本よりも上」と世界が認識した、と韓国人が信じるまで続くということです。

こちらも、ちょっと前に話題になった本ですが、論評を少し紹介します。

 

ー以下ー

 第二章「キリストも孔子も韓国人?」では、

「韓国が中華思想を受け入れたわけ」を著者は述べます。

「朝鮮半島も昔から儒教の強い影響下にあるため、韓国人も、やはり、上下の秩序を重んじる国民性を持っています。加えて朝鮮民族の先人は、中華思想を全面的に受け入れるという道を選びました」

 日本では、かつて遣隋使のというものがありました。そのとき、聖徳太子が隋の煬帝に送ったとされる国書の中には、有名な「日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す。恙なきや」という一文があります。著者は「これは日本が中国皇帝に従属することを意味する「冊封体制」を拒否しあくまでも対等な外交を求める決意表明だった」と述べます。ところが、朝鮮民族は違ったと、著者は以下のように述べます。

「中国皇帝に絶対服従し、儒教や中華思想を丸ごと採り入れて、中国にすり寄ることで、他の周辺国に対して優位性を保とうとした。そして自分達を『小中華』と自称した。

朝鮮半島は、中国大陸から一番近い位置にあるので、中華思想に従い、受け入れる事で、何の努力をしなくても、永遠に、ナンバー2のポジションを得られると考えたわけです。

 

著者は「米中間を右往左往のコウモリ国家」として韓国を比喩し、「事大主義」から逃れられない国であると指摘します。「事大主義」については以下のように説明しています。 「常に優勢な側の勢力を選んで接近し、自分の保護を願い出ること。常に『ナンバー2』の地位でいたいのですが、ときどきは、『ナンバー1』が入れ替わるのが世の常なので、そのたびに見苦しく右往左往します。問題に詳しい評論家の表現を借りれば、韓国人は『優れた属国DNA』を持っているそうです。つまり『虎の威を借る狐』の役をやらせたら、韓国の右に出る者はいないということです」 

著者は、韓国が国際社会で展開する日本を貶めるプロパガンダについて、述べています。

朝鮮のことわざには、『嘘も上手くつけば稲田千坪にも優る』というものがあります。 孔子の時代はいざ知らず、現代の中国人や韓国人に『嘘つきは泥棒の始まり』という考え方はないのです。さすがに外国首脳で、韓国の告げ口に賛同した人はいないでしょう。 アメリカでは、韓国の告げ口外交は「明白に外交儀礼に反する行為だ」という見方です。

 

また、「何でも韓国発祥の『ウリジナル』」として著者は述べます。

韓国人が『わが国が発祥だ』と力説する日本的要素を挙げると、歌舞伎、ソメイヨシノ、茶道、折り紙、侍、日本刀、剣道、相撲、寿司やしゃぶしゃぶなどの和食・・・・・・・一般市民のジョークではなく、大手メディアや学者までが、真顔で言い出すものだから、ここまで来ると、お笑いでは済まないレベルである。この『何でも韓国発祥説』は朝鮮語で『われわれ』を意味する『ウリ』に、『オリジナル』を組み合わせ、『ウリジナル』と揶揄されておりそのうちキリストも孔子も韓国人だなどと主張するのではと書いている。

 

 第三章「中国・韓国の自己中心主義の裏側」では、「儒教の死生観と日本の死生観」として、著者はいわゆる「靖国問題」を取り上げて述べます。

「中国や韓国が靖国神社の参拝に反発する理由の1つに、儒教に基づく死生観と日本人の死生観の違いがあります。 古代中国人は次のような考え方を持っていました。 ―― 『人間は精神(魂)と肉体から成り立っており、死とはこの2つが分離することである』『死によって肉体から離れた魂は消えることなく、いずれ肉体と共存するようになれば、再び蘇ることができる』そう考えていたのです。

これは、儒教における先祖崇拝と密接な関係にあり、中国人が家族や親族だけを信頼し、他人に信頼を置かない気質も、そこから来ているといわれます」 続けて著者は日本人の死生観について述べます。 「一方、日本人の死生観に大きな影響を与えた仏教では、死後の世界は、生前の世界から完全に解放されると解釈しています。そして別の世界に生まれ変わったり、あるいは別の人間や別の生き物に生まれ変わるとしています。このように、仏教的思想の日本と、儒教的思想の中国・韓国とでは、死者に対する解釈が大きく違い、日本ではたとえ罪人であっても、死んでしまえばその罪から解放されると考えます。

しかし中国人や韓国人では、罪人はたとえ死んでも、永遠に罪人なのです。」 また、「なぜ遺体までバラバラにするのか」として、著者は述べます。 「日本人の宗教観では、たとえ罪人や敵として戦った相手でも、死んでしまえば遺体を丁重に葬ります。それには死者の祟りを恐れるという心理もあるようですが、遺体への礼節を常に持っています。 他方、中国人や韓国人には、その点が明らかに欠けています。つまり前項で述べたように『死者はやがて蘇る』という儒教的思想から来るのでしょう。ですから、一度戦った敵はたとえ死んでも憎しみの対象のまま・・・・・・もし魂が戻ってきても決して復活できないようにと、遺体をバラバラにしたりもします。こうした行いは、とりわけ、東アジアの儒教文化圏に多いように思えます。しかし日本人は敵味方を問わず、死者に対して慰霊の念を忘れません」

 

 第四章「日本は儒教国家ではない!」では、「日本人の道徳規範は武士道」として、 著者は以下のように述べています。 「確かに日本にも儒教は伝わりました。それは仏教が伝来する以前のことです。そして日本人は、儒教の精神を上手に取り入れながら、独自の文化を発達させていきました。仏教精神も取り入れ、伝統的な神道などにうまく吸収し、江戸時代には、武士道という倫理・道徳規範として確立させます」  この読書館で紹介した新渡戸稲造の名著『武士道』を読めばわかりますが、武士道には儒教のみならず、神道も仏教も入っています。偉大なる宗教編集者であった聖徳太子によって、神道・仏教・儒教の三宗教は日本において共生しました。聖徳太子は、儒教によって社会制度の調停をはかり、仏教によって人心の内的不安を解消する。すなわち心の部分を仏教で、社会の部分を儒教で、そして自然と人間の循環調停を神道が担う・・・3つの宗教がそれぞれ平和分担するという「和」の宗教国家構想を説いたのです。 この聖徳太子の宗教における編集作業は日本人の精神的伝統となり、ついには武士道の中で合体を果たしました。

ー以上ー

と韓民族には受け入れがたいほどに、はげしい批判内容が紹介されています。

 

【 華夷意識】

儒教特有の階層的な世界観であり「上下関係」という序列で世界の秩序を保つとの発想です。

 

「自分が上で相手が下」という自己中心的な見方は、どんな集団・民族にでもある土俗的な自尊心です。 その自尊心を「儒教・朱子学」で理論武装し、思想体系・秩序体系にまで高めた為に、人心には、判断・思考の特殊さが根付いてしまった。

一に「優位性を持たねばならない」または「持つべきである」

二に「何より優先される為、手段は問わない」「選ばない」

 

それが、民族のアイデンティティーだというなら、悲しい事だと思う。当時に「檀君朝鮮」の思考が生まれた背景については理解できる。それも、ひとつの歴史として貴重なものだ。

しかし、「現実を捻じ曲げて意とする方向に操作する」姿勢が国家ぐるみで現在も肯定され、事実として継承される・・・

「こんな輩に歴史認識についてとやかく言われているのか」と思うと先人達に、本当に申し訳なく思ってしまう。

 

「朝鮮半島の歴史」(前編)で素朴に「何かおかしい・・・」と感じた得体の知れない何かが、「朝鮮半島の歴史」(中編)

(後編)で姿を現す。びっくりして「歴代政権の対日政策」で再確認してみるが、やはり確かなようだ。

確かに、ユーラシア大陸の東方に位置する朝鮮半島は有史以来、僕ら島国の日本からは、想像を絶する、過酷な民族間の抗争に身を置いてきたのは、紛れもない事実だ。

 

その立地条件や、規模からしても、強者でいられるわけも無く、常に時々の支配者の風下に立ち生きるすべを身につけてきた。その中で、朝鮮内の為政者は自らの存在を確認する為にも「階級制度」にこだわり、堅持する事に努めた。それは下層の人々にとつても「命の補償を意味し最低限の安住につながった」ので機能し続ける。

大陸には多くの民族・文化が混在した。

それらは互いにアイデンティティーを求め主張し、時に激しく衝突した。

それが、同一民族の争いであれ、異民族間の争いであれ、大陸で戦乱が起こるたびに多くの難民が安住の地を求め移り住んだ。

支配者が変わるたびに、身をひるがえし、立ち回り、服従を誓って、取り入る事で、存続し続けてきた。

朝鮮半島とは、そういう地なのだ。

  

先人達は、我々が現在、思う以上に互いを熟知し、継続的な姿勢での交流の中で、関係を築き挙げた のではないだろうか。

朝鮮半島南端には、統一的な国家が出来る随分前から、伽耶・任那(日本府)があった。それは武力による制圧や支配とは違い、また行政府というより、民間交易の拠点として存在していた。

事実、朝鮮は貨幣経済を担う「銅」の供給を日本に依存していた。

交易の歴史は「日本書紀・古事記」などに丁寧に記されており、中華の支配構図とは、 全く違った、日本と朝鮮との継続的な関係が垣間見えるのである。

【三韓征伐】(200年~

神功皇后が新羅出兵を行い、朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる遠征。

神功皇后は、第14代仲哀天皇の后であり、第15代応神天皇の母である。

 

経緯は『古事記』『日本書紀』に記載されているが、朝鮮や中国の歴史書や碑文にも関連するかと思われる記事がある。

『日本書紀』では、新羅が降伏した後に、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれるが、直接の戦闘が記されているのは対新羅戦だけなので新羅征伐と言う場合もある。

『古事記』では、新羅と百済の服属は語られているが、高句麗の反応は記されず、「三韓」の語も現れない。ただし三韓とは馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加羅)・辰韓(後の新羅)を示し、高句麗を含まない朝鮮半島南部のみの征服とも考えられる。

413年から478年まで倭国(倭の五王)は、東晋と宋に朝貢し、朝鮮半島南部での倭国の支配権の国際的承認を求めた。

 

詳しくは後に「記紀」で語る。

【白村江の戦い】

(663年)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、日本・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争。

 

この時代に、任那・加羅は百済譲渡などや、新羅に征服され滅亡する。

628年に中華を統一した唐は高句麗を武力で征服して、新羅を「冊封」する。百済では、間伐の飢饉で国土は荒廃し、防衛力は極度に減退、唐に飲み込まれようとしていた。この大陸での情勢変化は「大化の改新」真っ最中の日本において、も大いに危機感となる。

唐により滅亡された百済に復興運動がおきると、長年の友好国であった百済の救援の求めに応じ、中大兄皇子は663年に遠征軍を派遣、参戦したが「白村江の戦い」で惨敗する。

倭軍の戦闘は準備もズサンで、全く歯がたたず、軍備も脆弱だったようである。

【新羅の入寇】

新羅からの流民・帰化人による犯罪及び

新羅王の勅命による国家規模の海賊行為、かつては「新羅の賊」と呼ばれた。

新羅の国内の混乱(811年)から、新羅の滅亡(935年)まで新羅の賊が度々、対馬や壱岐など日本列島を侵した。

新羅という国は、建国以来勢いのある時は倭国に尊大な態度で臨み、弱っている時は忠誠を誓い庇護を求めた。

779年新羅から御調【みつき】(服従の証)が届いたころから多数の難民が日本に帰化を求め流入する。780年には使者を取りやめたが民間交流は続いた。

・811年対馬に100人(船五艘)の賊が侵入が報告され「防人」が強化された。

・820年近江・駿河に移配された新羅の避難民(帰化人)700人が暴動をおこす。

(帰化後、博多で本国と違法貿易を目論んでいたものと思われる)

・869年新羅の海賊、艦二艘に乗り、博多の荒津に上陸し、豊前の貢調船を襲撃。

(年貢の絹綿を掠奪し逃げた)

9世紀半ばには、五島列島に唐や新羅の商船が寄港する基地があり、新羅海賊もここを経由して博多を襲撃した。

【刀伊の入寇】(1019年)

女真族(満洲民族)の一派とみられる集団を主体にした海賊が、壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事件。

 997年~1001年にかけて高麗海賊による入寇が記録され、1019年には、高麗傘下の女真族による「刀伊の入寇」があった。

 

「対馬」-「壱岐」-「博多」(撃退)

この構図で、「対馬・壱岐」は侵略されて多くの被害者を出し続けた。

【倭寇】

1224年から5回に渡って、高麗の金州(現中国領)や巨済島などに初めて倭人の海賊が襲来。 後に「倭寇」と呼ばれる海賊の活動が始まった。

高麗は大宰府に海賊取締りを要請し、鎌倉幕府の担当武官は高麗大使の目の前で海賊90名を処刑させた。

 

1231年より、蒙古モンゴル軍の侵攻を受け始めた高麗王朝が1259年28年間の抵抗後に、蒙古(モンゴル帝国)に降伏し、「臣下の礼」をとった。

大陸では、5代皇帝クビライが1260年、年号を「元至」とし 4年後には大都(北京)に遷都し、大元帝国の礎は出来た。

 

高麗では、王朝・官僚は(蒙古)モンゴル帝国にすり寄り、生き残りの道を模索したが、1270年、「国を護らんとするもの結集せよ」と蒙古抵抗の呼掛けが出され、土地台帳も焼き払い、身分制度もなくすという新しい政府構想を持った一団が半島南部の珍島へ移り、臨時政府を作った。「三別抄」という軍人集団、将軍ペ・ジュンソン(高麗史では反逆者の扱い。)で「三別抄」を支持したのは下層の人たち、奴婢や農民の一般民衆であった。

1271年「三別抄」は鎌倉幕府に国書を送り、救援を願い出るが、当時は、南宋貿易以外の国交は断絶状態にあり、救援の願いは無視されてしまう。 この民族解放運動は、3年間の抵抗運動後に制圧され、1273年 済州島で「三別抄」は玉砕した。

 

大元帝国としては、朝鮮半島南端まで実効支配を完了し、日本列島へ侵攻が可能となる。

同時期に南宋に対しても、戦端を開いていたが、1276年に首都襄陽陥落、揚子江を制圧、ユーラシア大陸の支配を完成させた。

【元寇】(日本の鎌倉時代中期)

文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)

 

モンゴル帝国(元)が中華に君臨した時代には、

朝鮮半島は、それまでの中華の支配「冊封体制」とは違った直接的な支配に身を置かれていた。

 

こうした「異民族」の支配に対し、当時の朝鮮国家であった高麗では「王室に取り込む」(モンゴル皇帝の娘を王妃とし、王子はモンゴル本国で育て、後に高麗王に君臨する。)政策が行われた。(「高麗」存続のための策として元の衰退まで行われた。)

こうした流れで、2度に渡る「元寇」が高麗王の策略と元皇帝の野望の下に行われた。

【文永の役】1274年10月3日~10月21日

対馬では元・高麗軍の襲撃により、多くの島民が殺害され捕虜として連れ去られた。

次いで壱岐でも激しい殺戮が行われ圧倒的な兵力の前に鎌倉幕府軍は敗戦を続ける。

 

と言っても、当初は地侍が対処していたに過ぎず、対馬・壱岐の惨状が伝わると九州地方の御家人衆が博多湾に集結を始める。

襲来から2週間後、博多湾上陸戦となり、九州の御家人寄せ集め軍は、2度の大きな戦闘に勝利し、敵将に深傷を与えている。

(博多の戦闘では、諸説あり)その後に元・高麗軍は突然、夜間の撤退作戦を強行暴風雨により多くの艦艇が被害を受けた。

 

元・高麗軍の突然の撤退には、様々な要素が起因しているとは思うが、そのまま押し切る武力を削いだ要因は「三別抄」の抵抗運動にもあると思われる。

1275年2月(1年半後)元皇帝クビライは日本再侵攻の準備を進めるとともに日本を服属させるため使節団を派遣した。

使節団は長門国(山口県)に来着するが、「執権・北条時宗」は、使節団を鎌倉に連行すると、龍ノ口刑場(江ノ島付近)において、使節団全員を斬首に処した。

(これは、使節団というより間諜(スパイ)とされたため)

 

事実、この頃より、戦いの準備は始められ、高麗では、大量の軍艦の建造が始まった。入念な準備が進められる中で、その後も使節団が送られるが、博多で斬首されている。

その事実が高麗・元に伝わると、遂に2度目の遠征軍が出兵。

 

【弘安の役】1281年5月3日~7月30日

元・高麗軍と旧南宋軍合計して約14万~15万、軍船4,400艘の大軍が日本に向けて出航した。

日本へ派遣された艦隊は史上例をみない規模で世界史上最大の艦隊であった。

 

対馬侵攻:5月21日 壱岐侵攻:5月26日

博多湾侵入6月 博多大宰府付近の強固な防衛網に博多湾上陸を断念し、志賀島に上陸占領する。

 

御家人軍の奮闘が続き、壱岐まで元・高麗の侵攻軍を押し戻すと、敵軍は援軍を待つが、合流の期日になっても援軍は到着しない、7月には御家人軍の攻勢で壱岐を放棄させる。

鷹島(長崎)で元・高麗の侵攻軍の全軍が集結、一方、六波羅探題の指令により、続々と幕府大軍勢が九州に向かっていた。 

 

7月30日 九州地方を台風が襲う、侵攻が始まって3か月が経過していた。

多大な被害を出した元・高麗軍の将校は10万の兵を鷹島に置き去りに逃亡した。 

後に、帰国出来たものはわずかだった。 

 

鷹島には首除(くびのき)、首崎、血崎、血浦、刀の元、胴代、死浦、地獄谷、遠矢の原、前生死岩、後生死岩、供養の元、伊野利(祈り)の浜など地名が代々伝わっている。

他、2万~3万人前後は捕虜として博多に送られ、後も日本で生き永らえたようである。

 第二次侵攻(弘安の役)で、敗北した元は、翌年の1282年(弘安5年)1月に一旦は、日本侵攻の司令部・日本行省を廃止したものの、皇帝クビライは日本侵攻を諦めきれず、再度日本侵攻を計画した。同年7月、クビライの再侵攻の意向を知った「高麗国王・忠烈王」は、150艘の軍船を建造して日本侵攻を促す為に、助けたい旨をクビライに上奏する。

しかし、この時には東南アジアの戦端でのベトナム(大越)の抵抗により、東進戦力を東南アジアに移動せざるを得ず、

結局その後、何度も日本への侵攻が持ち上がるが、民の疲弊や戦費の圧迫、本土の治安悪化などを理由に中止された。

1294年:1月、大元朝初代皇帝・クビライが没する。

クビライが死去したことに伴い、高麗での造船は停止し、幾度も持ち上がっては消えた。日本侵攻計画は、これをもって ようやく中止となった。

弘安の役での敗戦と、その後の日本武装商船(倭寇)の活動によって中国・朝鮮の対日本観は大きく変化した。

 

 後の明王朝による日本征討論が、初代皇帝・朱元璋(洪武帝)、第3代皇帝・永楽帝、第12代皇帝・嘉靖帝の時の計3回に渡って議論されたが、思いとどまる。

封建制度下で訓練された武士団は強力だったのである。

 

高麗の蛮行については、後継の李氏朝鮮でも関与を認め「昔、高麗が元の兵を導いて日本を攻撃した」とあり、作為的で主導的な行動であった事が見て取れる。

 

日本人から見れば、宗主国をそそのかし、力を利用して侵略に相乗りしようとした卑怯な国としか映らない。

【応永の外寇(おうえいのがいこう)】

室町時代応永26年(1419年)

李氏朝鮮による「倭寇討伐」を名目とした対馬攻撃。朝鮮では己亥東征と言われる。

 

 当時、足利義持が明使を追い返すなど、日明関係が悪化していたこともあり、朝廷では当初これを中国からの侵攻と誤解したために、歴史書の一部には「大唐蜂起」と記されているものもある。

朝鮮軍は227隻の船に1万7285人の兵士を率いて対馬に上陸したが、宗貞茂の抵抗により、4人の将校が戦死し、百数十人が戦死及び崖に追い詰められて墜落死し、朝鮮軍は動揺して逃走したが、船に火を掛けられて大敗を喫した。 朝鮮側もすぐに迎撃のための再遠征を議論するほど戦果は不充分であったが結局実現しなかった。

この外征以降、宗貞盛に日朝貿易の管理統制権が与えられ、対馬と朝鮮の通交関係の回復がなされた。その後、宗貞盛は李氏朝鮮と嘉吉条約を結び、朝鮮への通交権は宗氏にほぼ独占されるようになった。

【文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)】文禄元年/(1592年~1593年)休戦(文禄の役)

慶長2年:(1597年)講和交渉決裂再開(慶長の役)慶長3年:(1598年)太閤豊臣秀吉の死により撤退。

 

日本の天下統一を果たした豊臣秀吉は大明帝国の征服を目指した。秀吉は(明の)冊封国である李氏朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。小西行長や加藤清正らの侵攻で混乱し、首都を放棄した朝鮮国王「宣祖」は、明の援軍を仰いで連合軍でこれに抵抗しようとした。

明は日本軍を阻むために出兵を決断し。

以後、戦線は膠着した。

休戦と交渉を挟んで、朝鮮半島を舞台に戦われた国際戦争は16世紀における世界最大規模の戦争となった。

李氏朝鮮は両班(支配層)による階級差別と過酷な搾取によって農民は毎年春には、必ず飢え「春窮」、町には流民が増加し、貧しい奴隷生活をおくった。また流通経済が未発達で、自給自足と物々交換が基本で食料の調達を行う有様だった。

 

何が言いたいかというと、李氏朝鮮には、征服の経済的メリットなど、何も無い事は秀吉も充分に分かっていたはずである。

宗主国の明の征服を望んだとするなら、「何故?」「何の為に?」が大きな疑問で

豊臣秀吉は何を狙い目指したのか?・・・

 (中華への征服欲とは到底思えない)

これについては諸説あり、どれも、いまひとつ合点がいかない。言えることは、その後の内外の情勢変化 だけだ。(これは「大東亜共栄圏」として別にご紹介します。)

 

ここで述べるのは、

「文禄・慶長の役」は、現在の、朝鮮半島国家(朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国)における反日感情の原点とされることをあげる。

 

李王朝と両班は戦争の最中も、政争に明け暮れ、攻められると逃げ惑った。解決策のないまま追う秀吉軍・明援軍・李王朝軍の三軍による略奪行為に朝鮮国土は荒れ続けた。

危機感を持った民衆が抵抗運動に立ち上がったが、秀吉の死による撤退により戦争が終結するころには、社会は崩壊、経済も破綻していた。

宗主国であった明にも弱体化が進み、後金(女真族)の台頭を招くことになる。

その後1636年:清(後金)が成立し皇帝太宗(ホンタイジ)により、李氏朝鮮は屈辱的な征服を受ける。

 

儒教、朱子学の事大主義・小中華の観点から精神的には反清論が長年渦巻いて政治的論争になり続けたが 結局、清に対する服属関係は日清戦争の下関条約が締結され、朝鮮が大清皇帝、中心の冊封体制から離脱する1895年まで続くことになる。

【小中華思想】(華夷思想)

小中華思想の元となった中華思想は儒教に裏付けられた漢民族の文化優越主義から始まり、地理的世界観、政治的世界観も併せ持つに至る。

中華思想の基で中国王朝は周辺諸民族を他者化(自他の区別をつけるもの)し、夷狄(文明化しない野蛮人)、禽獣(獣に等しい存在)と蔑む一方、冊封体制(事大朝貢体制)によってその世界観を具現化し、また同時に夷狄の教化に当たった。

 

中国王朝のこうした世界観は周辺諸国では否定的に受け取られることが多く、ベトナムでは対外的君主と国内的君主を分離した上皇制度を導入した。また日本でも聖徳太子の書「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」、あるいは南北朝期の懐良親王が明の太祖からの朝貢を促す書簡を無礼と見なし、使者を斬り捨てたことに表れるように、中華中心の華夷観を否定し対等外交を志向する向きが強かった。

それに対し、朝鮮では中国王朝に従い、積極的に中華文明つまり「儒教」及びそれに伴う「華夷観」を受容し、「中華に同化することで自国の格上げを図る道を選択」した。

朝鮮は本来の華夷秩序においては夷狄に相当するものであったが、自らを「中国王朝と共に中華を形成する一部(小中華)」と見なそうとしたのである。朝鮮の中国王朝に対するこうした姿勢は政治的には事大、文化的には慕華(中華を慕う思い)となり、政治的文化的に中華に従うものとして整合性の取れたものであった。

 

しかし朝鮮は時には漢民族以外の中国王朝(金や元、清など)に事大を強いられることもあり、これを事夷と呼び、華夷観と政治的現実の狭間で苦しめられることとなった。

 

一方、自らを小中華と見なすことは、周辺諸国を野蛮な夷狄、禽獣として他者化することも意味していた。この自らを華、周辺諸国を夷とする姿勢は、文化的優越主義に止まらず政治的地理的世界観にも表れ、現実はどうであれ「朝鮮は中国王朝と共に世界の中心をなし、周辺諸国を従属させている」と解釈しようと志向した。

 

例えば李氏朝鮮初期の1402年に製作された「混一疆理歴代国都之図」では、中国が世界の中心に位置し、朝鮮は実情よりかなり拡大された形で描かれている。それに対し日本、琉球、東南アジアはかなり小さく描かれ、方角も誤って描かれている。女真族の居住地であった中国東北地方は曖昧なまま処理されている。つまりこの地図が描き出した世界観は、明と李朝が中華でありそれ以外の地域は夷であるとするものであった。

 

こうした他者化の論理は、時に国内にも向けられ、中華文明を身につけていない者は同じ朝鮮人でも差別化されることに繋がった。李朝後期の両班達は、自身を「礼義を識り、漢詩漢文を巧みに操り、儒教の経典に精通した中華文明の体現者」と捉え、一方庶民を「夷狄禽獣の類い」と階層的差別意識を露にしていた。小中華思想の中には、中華思想と同じく、包容の論理が含まれていた。つまり独自の冊封体制、朝貢体制を整え夷狄との交流を図り、あるいは帰化人を受け入れて同化させるといった面も見られた。中華思想において、この他者化と包容、相反する二つの側面は、国力が充実しているときは異民族に開放的になり包容の論理が表れ、政治的に異民族から強い圧迫を受けているときは差別化が強調される傾向を持っていた。小中華思想においても同様の現象が現れ、政治的逆境に置かれた時期こそ文化的優越主義の側面が強く表れることになった。

李氏朝鮮時代(1392年~1910年)518年その後、現代(1911年~2019年)108年

 

両班は、儒教(朱子学)に基ずく理論武装で常に都合よく事実を歪めて他者を欺き、陥れ、自己を正当化してきた。

それは、弱く、貧しい歴史の中で、唯一の民族的自尊心を保つ手段であった。

それを否定せずに、充分に理解した上で、

日本政府には決意をもって臨んでほしい。

 

朝鮮民族は「そんなに甘く無い」自分が、正しいと思っている以上は収まらないし、

考えを改める事も無いだろう。

 

近い将来、南北朝鮮が融合するのは確実な流れだと思う。

諸外国は、すでに準備に入っている。

日本もここは、英知を結集して大局的立場に立って外交政策を見つめて欲しい。

 

正直言って、小競り合いに簡単に引きずり込まれる最近の政治家では、太刀打ち出来ないように思う。

 

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