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「韓国 歴代政権の対日政策」

これまで3回に渡って

「朝鮮半島の歴史」を見てきた。

 

大きく思うところはあるが、

朝鮮半島に「大韓民国」が成立してからの歴代政権の対日政策をまとめてから総論としよう。

 

これまでご紹介した内容も少し振り返る。

1948年8月15日:大日本帝国降伏の3年後に、実効支配地域を北緯38度線以南の朝鮮半島のみとしたまま(北朝鮮はソ連統治)「大韓民国」が建国。

 

この時、左派を嫌った米軍の軍政により、政務を引継がれたのが「李承晩・韓民党」であった。 

 

 李承晩は「大韓帝国初代皇帝:高宗」の要請で、アメリカへ派遣された外交特使だったが、役目を行使せず、アメリカでの留学生活をお送った。

 (日韓併合後1度本国に戻るが1年半でハワイへ)

 

その後、終戦2ヵ月後の1945年10月:アメリカ軍直接統治下の朝鮮半島に戻り、独立建国運動の中心人物となった。 

【大韓民国臨時政府】初代大統領であったこと【朝鮮建国準備委員会】に名を連ねたことで、アメリカにおいては「大統領に就任すべき正統性を備えている」とみなされていた。

 

大韓民国臨時政府(臨政)】

1919年の日本統治時代の朝鮮で起こった「三・一運動」後に海外で母国独立運動を進めた活動家、李承晩・呂運亨・金九らによって、中華民国(上海)で結成された朝鮮の組織。

 

朝鮮建国準備委員会(建準)】

1945年8月15日~9月7日に呂運亨を中心に朝鮮総督府(日本側統治府)の依頼を受けて、「朝鮮人による行政権の引き受けの為」に作られた組職。

 

李は中国国民党に人脈を育てており、マッカーサーに強く彼を推奨したのは蒋介石だったという、李はアメリカの意を受けて「建準」とも「臨政」とも距離をおいて「反共統一」を掲げた。

 

即時独立を求める民族派や左派の有力活動家がアメリカと正面から対立する中で、李はアメリカ軍政をある程度容認していた。

「反日民族派勢力」による「親日派粛清」に、恐れをなした日本統治時代の対日協力者が李の支持基盤となったのである。

南朝鮮、単独での初代選挙に至る過程で

起きた最も悲惨な事件、

「済州島四・三事件」

1948年4月:朝鮮の南北分断を固定するとの理由から南朝鮮単独での総選挙実施に反対した推定3万人の島民が南朝鮮国防警備隊、大韓民国国軍、南朝鮮の民間右翼によって虐殺された。

 

済州島の島民意思での運動を、北朝鮮の介入と見て南側の軍部や自警団が島民を虐殺した。済州島は後に大韓民国の領土になったが、この事件で日本に逃れ、現在の在日韓国朝鮮人となった者が多い。

初代大統領:李承晩

1948年~1960年 初代~第3代大統領

クーデターによりアメリカ亡命

 

1948年8月:「大韓民国」建国宣言

以来、政敵を排除に成功していく。

1949年6月:右派で最大の政敵「金九」が暗殺され、独裁体制が固まる。

その後、憲法を無視した強権を行使して

1956年には3選を果たす。その後も徹底的に政敵の粛清を行う。

1960年4選を狙った大統領選では、ついに民衆・学生の不満がソウルでの数万人規模のデモ行進へ発展した。(1週間続く)

 

最終的には、ラジオで「国民が望むなら大統領職を辞任する」と宣言し、建国以来12年間続いた独裁体制はようやく崩壊することになった。2日後に、養子の李康石が一家心中を図って李起鵬一家(実父母と実弟)を射殺、自らも命を絶った。

李承晩は1960年5月に妻とともにアメリカのハワイに亡命した。

 

李承晩政権期下、

韓国経済は1910年代の水準にまで後退し、これが1940年代のレベルにまで回復するのは1965年を待たねばならなかった。

李承晩政権期から朴正煕政権期の1970年前後まで、南側の大韓民国よりも北側の朝鮮民主主義人民共和国の方が経済的な体力では勝っていたのである。

(日韓併合から受け取った産業インフラが北の方が多かった事も大きな要因とされる。)

李承晩の家柄は良く、日本での皇族にあたる両班(りゃんばん)という家柄であり、李氏朝鮮時代の、階級制度に基ずく国家を理想とした。(民主主義は理念には無い)

 

反共抗日の根底には色濃く、一部特権階級による支配の思考が垣間見え、李承晩政権の政策が、後の抗日体制を作り上げた。

 

また、対日戦勝国つまり連合国の一員であるとの立場を主張し、日本に戦争賠償金を要求さらに1951年1月:李承晩大統領は「対日講和会議に対する韓国政府の方針」を発表し、サンフランシスコ講和会議参加への希望を表明したが、連合国側からは、「ゆすり・たかりの部類」と拒否された。(以降、その独断的な姿勢で世界的に冷遇される)

「李承晩ライン」

1952年:「一方的な海洋主権宣言」

戦後1945年9月GHQ(連合軍総司令部)は暫定統治の都合から、日本の漁船に係る操業区域を制限した「マッカーサーライン」)を示した。

 

GHQが日本に求め促したマッカーサーラインは1951年9月の「日本国の主権回復」を契機に、

1952年9月に廃止となる事が講和条約で取決めされていた。(国際基準に」もどる

 

1952年1月:李承晩は大統領令「大韓民国隣接海洋の主権に対する大統領の宣言」を公表

自国の海洋境界線「李承晩ライン」を主張した。豊富な水産資源の漁場の確保を目的とし国際協調を無視して行った措置であった。

李ラインを越えて操業した日本漁船は拿捕され、長期間抑留された。「日韓基本条約」締結までの13年の間で、拿捕漁船は328隻、漁師3929人が韓国側に拘束される。

 

李ラインの目的の一つには、「竹島(韓国名:獨島)」を自国領に取り込むということがあった。

それは、サンフランシスコ条約の交渉文書:ラスク書簡において竹島を日本領と定めたことなど、今迄の経緯を無視する格好となった。

李ラインの設定で、韓国の実効支配下に置かれた「竹島」の処遇は現在に至るまで日韓の懸案問題になっている。

教育面でも反日教育を徹底。

日帝時代を公に懐かしむことをさえ政治犯となり、韓国成立後のわずか2年で政治犯投獄は日本統治時代の約35年間の投獄者数を超えた。

 

日本大衆文化の流入を嫌い制限したことも結果的に知的財産権侵害の横行に陥った。(今日では次第に改善されてきている)

 

李承晩が日本を忌み嫌った事で、韓国経済は大きく後退し、世界の極貧国となったが併合時代に、伊藤博文によって作られた、戸籍制度・教育制度によって、貧しい市民の多くが広く教育を受けれた事が、韓国高度成長の下地となった。 権威主義を望んだ李承晩には眼中に無い事であったが・・・

尹 潽善(ユン・ボソン)

(1897年8月26日 ~ 1990年7月18日)

第4代大統領 在任日数:586日

独立後初代のソウル市長として政界入りし、

4.19革命で李承晩が失脚・亡命すると、民主党旧派の代表格として8月12日に大統領に選出された。しかし、新派の代表格で政治的実権を握っていた張勉首相との確執が絶えず、自ら民主党を離党して新民党を結成。5・16軍事クーデターの遠因を作った。

 大統領辞任後は野党の指導者として2度朴正煕に挑戦するなどし、軍事政権への抵抗と民主化運動に取り組んだ。

朴 正煕(パク・チョンヒ)

1961年:軍事クーデターで国家再建最高会議議長に就任

1963年~1979年大統領(第5代~第9代)を務めた。

 

彼の時代から約30年間『漢江の奇跡』と呼ばれる高度経済成長が実現されて韓国は世界最貧国の層から脱した。

 

福田赳夫か訪韓した際の、韓国官僚との酒席発言として

「日本の朝鮮統治はそう悪かったと思わない。自分は非常に貧しい農村の子供で学校にも行けなかったのに、日本人が来て義務教育を受けさせない親は罰すると命令したので、親は仕方なしに大事な労働力だった自分を学校に行かせてくれた。すると成績がよかったので日本人の先生が師範学校に行けと勧めてくれた。さらに軍官学校を経て東京の陸軍士官学校に進学し、首席で卒業することができた。卒業式では日本人を含めた卒業生を代表して答辞を読んだ。日本の教育は割りと公平だったと思うし、日本のやった政治も私は感情的に非難するつもりもない、むしろ私は評価している。」と語った。

【日韓基本条約】

昭和40年(1965年)6月に日本と大韓民国との間で結ばれた条約。

 

日本が朝鮮半島に残したインフラ・資産・権利を放棄し、当時の韓国国家予算の2年分以上(11億ドル)を資金提供することで、「国交樹立・経済協力」「両国間の請求権の完全かつ最終的な解決」、それらに基づく日韓関係正常化などが決められた。

【日韓交渉の経緯】

サンフランシスコ講和会議参加を連合国側から拒否された李大統領は、日本政府との直接対話を希望し、李の扱いに手を焼いたアメリカの仲介で、日韓交渉は始まり、1951年10月に予備会談を開始した。会談は東京の連合国軍総司令部(GHQ)シーボルド外交局長立会いのもとに行われた。

 

李は朝鮮戦争停戦においても独善的で手前勝手な行為を続け、世界が「関わりたくない・相手にしない」という姿勢で臨むようになった。 日本を敵視し続けていた李大統領の対日姿勢もあり、予備交渉の段階から紛糾した。

李承晩は対話の前提として、日本の謝罪「過去の過ちに対する悔恨」を日本側が、誠実に表明することが必要であり、韓国の主張する請求権問題の解決にうつることができるとした。しかし、日本側は逆に日本も韓国に対して請求権を要求できるとのべ反発した。李承晩は報復として、日韓会談直前の1952年:1月「李承晩ライン」宣言する強硬政策に出た。

【第1次会談】

(1952年2月15日~4月25日)

韓国(林松本代表)

「日本からの解放国家である韓国と、日本との戦争で勝利を勝ち得た連合国は、類似した方法で、日本政府や日本国民の財産を取得できる」と述べ日韓会談は日本側がこの主張を認めるか否かにかかっていると日本に警告し、自らを連合国の一員と位置づけることで、日本から利益を得ようとしていた。

 

【第2次会談】

(1953年(昭和28年)4月15日~7月23日)

第2次会談と平行して、李承晩ラインの問題も深刻化し、会談直前1953年2月には韓国海軍によって、日本民間の漁船が銃撃され、船長が死亡する「第一大邦丸事件」が発生した。

また、第2次会談 開始直後4月:韓国の民兵組織が、 島根県の竹島に駐屯。1953年7月:朝鮮戦争は休戦)

 

【第3次会談】

(1953年10月6日~10月21日)

韓国側「日本の在韓財産はアメリカが接収したのであり韓国は36年間の日本の支配下での愛国者の虐殺、韓国人の基本的人権の剥奪、食料の強制供出、労働力の搾取などへの賠償を請求する権利を持っている」と述べた。

久保田貫一郎が「植林し、鉄道を敷設し、水田を増やし、韓国人に多くの利益を与えたし、日本が進出しなければロシアか中国に占領されていただろう」と反論した。

また、米国による日本人資産の接収は国際法に違反していないと考えるし、違反してたとしても、米国への請求権は放棄したと回答した。

この発言に対して、植民地支配は韓国に、害だけを与えたと主張する韓国側からは、妄言として批判され日韓会談は中断した。韓国側は久保田発言を撤回「悪かったと認めなければ会談の続行は不可能」と述べた。 久保田は、「日本が非建設的であるというが、韓国は1952年の日韓会談直前に李承晩ライン宣言を強行したり、日本の漁船を拿捕し、雰囲気を悪化させたし、これは国際法違反であり、国際司法裁判所に提訴するのが原則であると述べ、国際会議で見解を発表するのは当然のことであるし、まるで暴言したかのように外国に宣伝することは妥当ではないし、撤回はしない、また発言が誤りであったとは考えないと答えた。」

韓国側は会談に今後出席できないが、これは完全に日本に責任があると述べ会談は終了。韓国は「久保田妄言」への報復として李承晩ラインを再設定し、竹島を占領した。

 

【第4次会談】

(1958年4月15日~1960年4月15日)

1958年4月:日本は東京国立博物館の106点の文化財を韓国に返還したが、韓国側は資料的価値の低いものと評価して、歓迎されなかった。

1958年6月:日本は韓国側の気持に同情的であると述べたが、10月には全文化財の引渡は不可能とのべた。

 

1960年4月:韓国で四月革命が発生、4月26日に李承晩は大統領を辞任した。

 

【第5次会談】

(1960年10月25日~1961年5月15日)

専門家会議がはじめて実施された。

 

韓国の「不法に持ち去られた」主張に対し日本の反論が繰り返された。

韓国側は「正当な取引であるとしても取引自体が植民地内でなさえた威圧的な取引であった。」と答えた。

 

1961年5月:韓国で朴正煕の(5・16軍事クーデター)勃発、日韓会談は中断した。

直後「池田ケネディ日米首脳会談」民政移管を条件として韓国軍事政権の支持が合意。

 

【第6次会談】

(1961年10月20日~1964年12月2日)

1962年3月:「会談にあたっての韓国内部文書」請求金額:無償援助は最低2億6000万ドル債権4600万ドルは日本が放棄すること前提。交渉では始め8億ドル、次いで6億ドルを順次提示、5億ドル、最悪4億ドルでの妥結も可能だが、最低2億6000万ドル以上は絶対に無償援助によるもので、最大限の努力を尽くすこととあった。

1962年10月・11月:大平外務大臣と金鍾泌による外相会談が開催された。

会談で韓国側は6億ドル、日本は1.5億ドルを提示した。アメリカの仲介で3~3.5億ドルに収まっていった。

 

10月:池田首相と金会談で、池田首相は法的根拠に基づいた純弁済額はいくら厚く計算しても7000万ドルであり、相当な考慮によって1.5億ドル、またはそれ以上を提示した。

11月:会談で無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款1億ドル以上という条件が提示され、大平外相が40分ほど考えた末合意し、合意内容をメモし、金に渡した。このメモは「金・大平メモ」とよばれる。

 

また韓国側は「韓国の軍事力が日本の国防に貢献している」とし、負担金を要求した。日本は「韓国の防衛力は韓国自体を守るために存在している」のであり、もし日本を守るために存在するならば、韓国国民のプライドが許さないはずだと反論した。

朴正煕が1961年11月:訪日し池田勇人と会談し、朴は、請求権問題は賠償的性格でなく法的根拠を持つものに限るとのべた。 池田首相も、法的根拠が確実なものに対しては請求権として支払い、以外は無償援助

・長期低利の借款援助を示唆し、経済協力方式による解決が提示された。

しかし、これが報道されると、韓国内では朴政権が妥協したと批判されたため、朴は請求権問題と「経済協力」は別々の問題であると説明した。

この日韓首脳会談が契機となり、

歴史認識問題や竹島(独島)の帰属問題は「解決せざるをもって、解決したとみなす」で知られる丁・河野密約により棚上げとなり、条約の締結に至った。

 

1963年には、朴正煕が大統領に当選。李承晩ライン撤廃に向けての漁業協定に問題が集約していった。

しかし1964年6月:日韓条約反対デモが警察を占領する事態が発生し、戒厳令が宣布され交渉も凍結された。のちに大統領となる李明博もこの時逮捕され、懲役刑を受けた。

 

これ以降、進展しない日韓交渉に苛立ったアメリカはベトナム戦争の激化もあり、露骨に介入するようになっていった。

【第7次会談】

(1964年12月3日~1965年6月22日)

1965年6月:文化財及び文化協力に関する日本国と大韓民国との間の協定が締結。

 

韓国政府は日本国から受けた請求権資金・援助金を、浦項総合製鉄、昭陽江ダム、 京釜高速道路漢江鉄橋、嶺東火力発電所、などの建設に充てて、最貧国から一転して経済発展を遂げた。

 

韓国政府は日本から受けた資金5億ドルに含まれた「個人への補償金であった無償援助3億ドル分」含めて経済発展資金に回したことが発覚。

2014年:裁判になったが、「日韓請求権協定で受け取った資金を産業育成やインフラ整備など他目的に使用したことについて法律に沿うもので違法行為とは見ることはできない」との理由で原告は棄却や敗訴している。

 

当時、韓国が主張した対日個人債権に対して

日本政府は、「韓国側からの徴用者名簿等の資料提出を条件に個別償還を行う」と提案

韓国政府は、「個人への補償は韓国政府が行うので日本は韓国政府へ一括して支払って欲しい」とし現金合計21億ドルと各種現物返還を請求した。

 

次の日韓交渉:日本は韓国政府へ一括支払いは承諾したが、金額面、21億ドルと各種現物返還は拒否した。その後、請求額に関しては韓国が妥協して「独立祝賀金」「発展途上国支援」として無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款3億ドルの供与及び融資を行った。

韓国政府はこの供与及び融資を、日本に対して債権を有する個々人にはほとんど支給せず、自国の経済基盤整備の為に使用した。

現在、批判する運動が韓国で起きている。

 

また、日本が朝鮮半島に残した53億ドル分の資産は朝鮮半島を占領した米ソによってすでに接収されていることが判明しており、この返還についても論点のひとつであったが最終的に日本はこれらの請求権を放棄した。

 

1965年8月:韓国国会は条約批准の同意案を可決した。

日本では、衆参両院の日韓特別委員会に於いて、与党自民党が条約の委員会採決を強行。本会議でも自民党と民社党のみが出席(他党は審議拒否)して条約の承認を可決した。

 

韓国側は、従来の主張を大幅に譲歩させた。これに対して「売国奴」「豊臣秀吉の朝鮮出兵以来の日帝侵略の償いをはした金で許すのか」「屈辱的譲歩」が大勢であった。

また、当時の朴政権は軍事独裁政権であり「開発独裁での不正蓄財」や「ODAにかかわる不正蓄財」と言った韓国国内の政治事情にからむ反対意見や、日本資産の直接流入による貿易赤字や失業率の増大低賃金労働の固定化等、経済的事情を主張する意見もあった。

朴政権は、最終的には国内の反対を戒厳令を敷く形で鎮圧した。

崔 圭夏(チェ・ギュハ)

(1919年7月16日 ~ 2006年10月22日)

第10代大統領 在任日数:254日(歴代最短)

 

1975年に金鍾泌の後任の国務総理(首相)に就任。

1979年10月26日に朴正煕が暗殺されると大統領権限代行となり、金鍾泌に次期大統領を依頼したが、本人に固辞されたため、

12月6日に大統領に就任し、約8ヶ月間(254日間)在任した。 韓国の歴代大統領の中で在任期間は最も短い。

全 斗煥(チョン・ドゥファン)

第11・12代大統領(在任:1980年 ~1988年)

 

全斗煥は、韓国の歴代大統領としては初めて、

朝鮮半島が日本の領土となったことは、自分の国(当時の大韓帝国)にも責任があったと発言した。

 

1981年8月15日:「光復節記念式典の演説」では、 「我々は国を失った民族の恥辱をめぐり、日本の帝国主義を責めるべきではなく、当時の情勢、国内的な団結、国力の弱さなど、我々自らの責任を、厳しく自責する姿勢が必要である」と主張している。翌年の光復節記念式典でも、「教科書問題」で反日感情が渦巻いていた韓国において「異民族支配の苦痛と侮辱を、再び経験しないため確実な保障は、我々を支配した国よりも暮らし易い国、より富強な国を作り上げる道しかあり得ない」と「克日」を強調した。

【第一次教科書問題】

1982年6月:文部省が教科書検定により、高校の歴史教科書において中国華北地域への「侵略」を「進出」と書き換えさせたとする日本のマスコミによる横並び報道をきっかけに、日本国内および「外交上」に生じた一連の騒動や問題。

 

実際には文科省は書き換えさせておらず、毎日新聞でも「これまでの調べでは今回の検定で『侵略』が『進出』に言い換えられた例は見つかっていない」と修正の報道し直すなど、誤報だった。

韓国マスコミの反発ぶりは軍事政権である全斗煥体制に、政権の正当性にコンプレックスがあったため「反日」で国民を動員したいという事情があったと分析している。韓国学学者はソウル在住の日本人の回想を紹介している。韓国の新聞社から感想を求められ「現物を見てからでないとコメントできない。一度それをみせてくれ」と求めたところ、そういうものは社にはないと言われたという。大々的なキャンペーンを張りながら、日本の報道を鵜呑みにしていて紙面を作っていたのか」と愕然としたという。

 

もし日本で進歩陣営による多年にわたるキャンペーンがなかったら、果たして教科書問題は起きただろうかと疑問を呈し、引き金となった中国の抗議が「日本の新聞報道によると」で始まっていたことは、まことに正直であったとしている。

1984年9月:全が国賓として初訪日した際、

昭和天皇は宮中晩餐会の席上「今世紀の一時期において両国の間に不幸な過去が存在したことはまことに遺憾であり繰り返されてはならない」と述べた。

 

韓国の外交文書によると、韓国政府が日本側に対し昭和天皇が日本の朝鮮半島統治などについて反省を示すよう事前に求めていた。また、全は宮中晩餐会の前日に安倍晋太郎外務大臣と会談し「弱い立場だと豊かな人、強い人に対してひねくれを感じ、相手が寛大にしても誤解をもつこともある。だから強かったり、豊かな人が少しくらい損をしても寛大な気持を持つべき。」「韓日の過去の誤解は大部分そういうものだった」と述べたという。

 

結局、その後事あるごとに韓国政権から外交上の挨拶のように謝罪を求められる日韓関係が築かれる事となる。

結局、日本から「どれだけ引き出せるか」が、韓国政権の関心事・最重要課題となり

李・朴・全 政権の40年間は、日本にとって日韓併合時代以上に足枷となった。併合時代に、奴隷身分から解放され名前をもち母国語(ハングル)を学ばせてもらい食料や仕事にありつけた人々の子供達は、貧しい母国が、みるみる復興、発展するのを目にしているはずなのだが・・・

お金ばかり取られている日本政府にあってこの人だけは流石と言わざるを得ない。

 【金大中事件】

1973年11月:田中角栄首相と金鍾泌首相の会談の機密文書が盧武鉉政権により公開(2006年2月)され、日韓両政府が両国関係に配慮した政治決着で穏便に事を済ませたことが明らかになった。『文藝春秋』2001年2月:記事によると「田中角栄首相が、政治決着で解決を探る朴大統領側から少なくとも現金4億円を受け取った」同席した新潟県議が証言している。

また娘の田中真紀子元外務大臣によると事前に田中角栄は「殺人をしないこと」を条件に拉致することを了承済であったという。但し角栄の当時の対応については「金大中を殺害するつもりなら爆破するぞ」と強く殺害の中止を求めたという説と、事なかれ主義的に拉致を認めたという説がある。 韓国から金を取るとは何にせよ流石である。

盧 泰愚(ノ・テウ)

1932年12月4日 ~ )

第13代大統領(在任: 1988年 ~1993年)

最後の軍人出身の大統領

 

ホントに記録の少ない方です。

軍人さんから民衆派に政権が変わるタイミングで穏やかに、平和的に移行されましたが、他の例に漏れず、退任後は懲役刑をうけました。

金 泳三(キム・ヨンサム)

1927年12月20日 ~ 2015年11月22日)

第14代大統領(在任1993年 - 1998年)

日本に対して常に歴史認識を問題にし、

1995年11月中国:江沢民国家主席との会談では「日本の悪い癖(ポルジャンモリ「バカたれ」)を叩き直してやる!」などと発言して、常に反日的な姿勢を顕著にしていた。また、 現在まで続く竹島問題についても、任期中の1995年に、大韓民国政府として船の接岸施設など初めて施設を建設するなどの強硬態度に打って出た。

この際、韓国政府は「日本をしつけ直す」と、自らの立場が上であるとの自負のもとに、大々的にキャンペーンを行い、韓国国内では歓喜をもって迎えられた。

就任前後に、日本で高まった「統一教会による誘拐事件」への対応は、非協力的で日本側に不興の声も上がった。また、韓国の独立記念「光復」50周年を記念して行われた歴史立て直し事業では、人気取りのための反日事業を推進した。

 

金泳三を「韓国社会の“独島愛国主義”を拡大した。」・「歴史の正しい立て直しとして、博物館としていた旧朝鮮総督府ビルを独立50周年記念で爆破解体」・「慰安婦問題では、河野談話やアジア女性基金による解決策を軽視で問題の長期化させる」など、反日愛国大衆迎合主義の大統領だった、日本には苦い思いが残る人との論評がある。

一説には、金大中への強いライバル意識がそうさせた国内向けパフォーマンスと言われ、

本人は日本人と親しく交際し、日本語で会話した。

慰安婦関係調査結果発表に関する

河野内閣官房長官の談話

1993年(平成5年)8月:河野洋平が閣議決定なしに発表した談話であり、河野談話として知られる。

 

河野は、この談話の中で、日本軍の関与を認め「おわびと反省」を表明したが「日本国政府が旧日本軍による慰安婦の強制連行を認めた」という誤解が広まった。

閣議承認された内容でない上、強制連行を示す証拠もないまま、韓国に対する外交的配慮という判断で発表したことから、浅はかで幼稚な手腕が日本でも大きな問題となった。

金 大中(キム・デジュン)

(1925年12月3日~ 2009年8月18日)

第15代大統領(在任1998年 ~ 2003年)

 

盧武鉉・江沢民の様に、強固な反日姿勢はとっておらず、2度命を救われている日本に寛容な立場で、潜在的親日派とされているが、大韓民国の事情により、親日に踏み込んだ発言まではしなかった。

ただし、小泉純一郎の靖国神社参拝問題には反対の姿勢であった。

盧 武鉉(ノ・ムヒョン)

1946年9月1日~ 2009年5月23日)

第16代大統領(2003年2月25日~2008年2月24日)

民主化以降の文民政権は、現代史の見直しや清算を進めてきたが、盧武鉉はこれを一歩進めて「日韓併合や日本統治時代の親日派」「朝鮮戦争時の韓国軍による民間人虐殺」「軍事政権下での人権抑圧事件」の真相究明を主張した。

韓国国会は過去清算に関わる立法を進め、金泳三・金大中政権で成立したものを含めて13の特別法が効力を持つことになった。

これらの法律を総括し日本統治時代から軍事政権期にいたる全ての事案に適用して真相究明や責任の追及、補償を行うための過去史基本法(真実・和解のための過去史整理基本法)を成立させた。

【対日外交戦争】

2005年3月盧武鉉が打ち出した外交政策外交施政宣言。かつての宗主国であった日本に対して、強硬な対決姿勢を採ることを特徴とする。

 

2004年3月:盧武鉉は政治基盤の弱さを突かれ、野党から弾劾訴追を受ける。結果(賛成193、反対2)大統領弾劾訴追案が可決され一時的に大統領職務を停止された。

2004年5月:民衆の後押しにより職務に復帰するが、その後も、多くの改革立法に失敗し敵だけが増え、経済をかえりみず、政治争いばかりだと判断した民心は離れて行く。

支持率低下が深刻な中、民心をとらえる切り札がどうしても必要だった。

 

盧武鉉は、韓国民にむけた談話のなかで「外交戦争もあり得る」「根を引き抜く」「一日二日で終わる戦いではない」「これ以上黙ってはいられない」「韓国は勝利するだろう」など戦闘的な言辞を多用して日本との対決姿勢を鮮明にし、対日非難を展開した。

 

2005年3月東亜日報では、盧大統領の不退転の覚悟を「背水の陣」として称揚するなど、 概ね、韓国のメディアの多くはこれを歓迎し、民衆へのアピール人気確保は成功した。

2005年以降も「独島問題」「歴史教科書歪曲」「靖国神社参拝問題」「韓日両国の過去の清算と歴史認識」「自主独立と主権守護のレベルで正面から扱っていく」「世界の世論と日本国民に日本政府の不当な措置を絶えず告発していく」「日本政府が誤りを正すまで、国家力と外交的支援を動員して協力を続ける」と語り、日本に対して強硬な姿勢をとりつづけた。

 

2005年4月、盧武鉉はドイツを訪問し小泉内閣が推進していた日本の国際連合常任理事国入りに断固反対を表明、一方でドイツの常任国入りは支持すると発言、ナチスドイツと 日本は同罪と呼びかけ共同宣言を持ちかけたが、ドイツ政府からは無視された。ドイツのユダヤ人代表団からは「ナチスドイツによるホロコーストは人類史上最大で他に例をみない反人類的な犯罪であって、これを日本の韓国統治と同一視することは、ユダヤ人虐殺の人類史的意義を不当に貶める、きわめて非国際的で悪辣な議論である」という厳しい批判を受け、ドイツのメディアからも訪問自体が無視された。

 

2006年4月ワシントンポストは、盧武鉉政権が、日本海上保安庁の竹島周辺海域海洋調査を阻止するため、日本政府への具体的な圧力として大韓民国国軍による「島根県内の防衛庁施設」に対する軍事攻撃を検討していたと報道した。

盧武鉉は「武力行使もありうる。国際法上合法だというならば、そんな国際法に意味はあるのか」と語ったといわれ、7月に朝鮮民主主義人民共和国が行ったミサイル乱射に対しても日韓両国は連携できず、国連安全保障理事会での北朝鮮に対する制裁議論に際しても、日本人拉致問題を重視する日本は、韓国に対して配慮ができず、両国間の溝は深まった。同年7月のウリ党指導部と統一外交通商委員会所属議員との晩餐会の席上、盧武鉉は「米国は友邦だが、日本とは対決しなければならない」と発言したと、韓国各紙が報道した。 さらに韓国大統領府は米国に対し、日本への核の傘を撤廃して日本を仮想敵国とするよう要請したものの、米国政府は拒否したとも報道されている。

2007年大統領選挙の結果、左派政権は破れて、保守政権が誕生する。

盧武鉉は2009年の大統領退任1年後に、自殺した。

親日反民族行為真相糾明委員会は2009年、親日反民族行為者財産調査委員会は2010年にその活動を終えた。

 

盧武鉉は、日本との関係だけでなくアメリカと韓国の関係も壊した。

2006年9月盧武鉉の最後のアメリカ訪問ではブッシュと大統領と6回目の首脳会談を行った。冷却化する米韓関係を象徴するように、メディアの扱いは冷淡であり、ニューヨーク・タイムズ紙では「米韓関係はここ数ヶ月で『日本海ほど広がった(as wide as the Sea of Japan)』」と評された。また会談後の共同文書発表に至らず一つの時代の終わりと、米韓同盟構造の解体を視野に入れた「白鳥の歌」を世界に知らしめることとなったと評す者もいた。

李 明博(イ・ミョンバク)

(1941年12月19日 ~ )

第17代大統領、ソウル特別市長を歴任。

 

盧政権が当初は歴史認識問題に関して積極的でなかったのに、後期に小泉総理大臣の靖国神社参拝を契機に歴史認識を問題視して批判的姿勢を強めたように歴代韓国大統領は就任当初の対日方針に関係なく大統領任期が末期に近づくにつれて反日強硬姿勢へと変わる。

李明博大統領もその例に漏れず、2006年11月の訪日で安倍首相(1次安倍内閣)と会談した際には韓国国民の三大懸案( 歴史認識・靖国神社・竹島)を未来志向的な解決に向け、積極的な努力をお願いしたいと日本に配慮の姿勢を見せるなど硬軟織り交ぜた態度でいたのだが、任期が残り1年頃から対日態度を硬化させ、大統領の意向で故意に竹島問題を絡ませた上に天皇謝罪要求をしたことから、任期残す半年の頃で日韓の高級官僚による政府間交流は断交状態となった。

朴 槿恵(パク・クネ)

(1952年2月2日 ~ )

第18代大統領

2013年2月:東アジア初韓国史上初の女性大統領に就任。 セウォル号沈没事故への対応不備や崔順実ゲート事件など一連の不祥事により2017年3月大統領弾劾が成立して罷免。

 

大統領就任前は、竹島問題や慰安婦問題における韓国政府の立場を堅持しながらも、歴史教科書問題では親日あるいは知日派的な保守の政治家とされ、教科書国定化の際は、植民地時代に肯定的なニューライト系の学者を重用した。

 

大統領罷免後に収監されたソウル拘置所で日本の山岡荘八の歴史小説を耽読してることが注目された際は、韓国世論から「やっぱり親日」「日本で政界復帰すればよい」と非難する声が上がった。

 

2013年3月:の三・一独立運動記念式典では、「(日本と韓国の)加害者と被害者という歴史的立場は、1000年の歴史が流れても変わることはない」と演説した。

以降一連の外遊外交を日本政府は女学生のようだと比喩し「告げ口外交」と呼んだ。

2013年5月:訪米 バラク・オバマ大統領会談:北朝鮮問題に関して中国やロシアの役割への期待を表明する一方、「北東アジアの平和のために日本は正しい歴史認識を持たねばならない」と批判した。

2013年9月:訪韓したチャック・ヘーゲル米国防長官に対して「歴史や領土問題で後ろ向きの発言ばかりする日本指導部のせいで信頼関係を築けない」と発言した。

2013年11月:欧州歴訪においても、要人との会談において日本批判を繰り返した。

 

同年11月:フィガロ紙に掲載された記事「(日本の政治家が歴史問題に関して)不適切な言動を繰り返している」「欧州統合は、ドイツが過去の過ちを改める態度を示したからこそ可能になったと思う。日本も、欧州統合の過程をよく調べる必要がある」と答えた。同年11月:BBCとのインタビューでは、北朝鮮に関して「必要なら、いつでも会うことができるという立場だ」と会談に前向きな姿勢を示す一方で日韓首脳会談においては「首脳会談をしても得るものはない」「日本の一部指導者は謝罪する気もなく、元慰安婦を侮辱し続けている」と述べた。

同年11月:ベルギーのエリオ・ディルポ首相との会談では、「北東アジアでの政治、安保の対立が拡大している」と日本を暗に批判した。

同年11月:欧州連合ヘルマン・ファン・ロンパウ欧州理事会議長との会談後の記者会見で、慰安婦問題に関して「日本には後ろ向きの政治家がいる」「安倍首相との会談は逆効果」「日本の指導者は考え方を変えるべきだ」と述べた。

 

2014年3月:日米韓の三カ国による首脳会談を発表。

大統領就任から日韓首脳会談を拒否してきたが、仲介に乗り出したアメリカと日本に押し切られ、事実上の外交敗北との評価もある。26日:オランダ・ハーグで会談。安倍首相がほほ笑みながら韓国語で挨拶するも、朴は硬い表情のまま目を合わせることもなかった。カメラマンが3氏による握手を求めても朴が応じないなど、冷え込んだ日韓関係を象徴する異様な首脳会談となった。

2014年10月:「(世界的に不透明感が強まっているため)株式市場を含む国内の市場では(韓国の)輸出企業の利益が円安のせいで悪化する恐れがある」と日本の為替相場に異例の言及をした。

2015年11月:李明博竹島上陸や韓国による天皇謝罪要求などでの中断から3年ぶりに開催の日中韓首脳会談出席のための、安倍首相の訪韓に備えて、韓国側は、朴主催の昼食会を交換条件に、慰安婦問題での「譲歩」を要求したが、日本側は拒否した。

 

日中韓首脳会談では2018年平昌オリンピック・2020年東京オリンピック・2022年北京オリンピックに向けたスポーツ交流強化と日中韓FTAの交渉加速や北朝鮮核問題での連携などを掲げた共同宣言が採択され、主催国の面子を保つために、中国の李克強国務院総理と安倍首相の双方と手を携える一方、日本の安倍首相とは夕食会を行わなかった。

2015年12月:日本政府と慰安婦問題日韓合意を成立させた。

2016年3月:日米韓が対北朝鮮ではあらゆる協力をすることで一致し、

同年6月:北朝鮮への対策で日米韓は初のミサイル防衛共同演習を行った。また、

同年11月:再び日米韓で合同訓練を行い、野党の反対を押し切り日韓の初の防衛協力協定である「日韓秘密軍事情報保護協定(GSOMIA)」も北朝鮮に対抗するために締結した。

2015年(平成27年)12月:韓国ソウルの外交部で行われた日本の岸田外務大臣と韓国の尹炳世外交部長官による外相会談後の共同記者発表。両外相は「日韓間の慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する」と表明した。

韓国政府が元慰安婦支援に設立する財団に日本政府が10億円を拠出し、両国が協力していくことを確認した。

外相会談では、日韓両政府が今後国際連合など国際社会の場で慰安婦問題を巡って双方が非難し合うのを控えることも申し合わせるとともに共同記者発表でその旨を表明した。

岸田外相は共同記者発表において「当時の軍の関与のもとに多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、日本政府は責任を痛感している」とし、「安倍晋三首相は日本国の首相として、改めて慰安婦としてあまたの苦痛を経験され、心身にわたり癒やしがたい傷を負われた、全ての方々に心からおわびと反省の気持ちを表明する」と述べた。一方、尹長官は「両国が受け入れうる合意に達することができた。これまで至難だった交渉にピリオドを打ち、この場で交渉の妥結宣言ができることを大変うれしく思う」と語った。

また、尹長官は共同記者発表の中でソウルの在韓日本国大使館前に設置されている慰安婦を象徴する少女像「日本政府が大使館の安寧・威厳の維持の観点から懸念していることを認知し、韓国政府としても可能な対応方向について関連団体との協議を行うことなどを通じて適切に解決されるよう努力する」と表明し、岸田外相もソウル日本大使館前の慰安婦像の扱いについて記者団に「適切に移転がなされるものだと認識している」として慰安婦問題に「終止符を打った」と語った。日韓両国はこの合意の際に公式な文書を交わさず、両国外相が共同記者会見を開いて合意内容を発表するという形式がとられた。

同日夜、日本の安倍首相と韓国の朴槿恵大統領は約15分間の首脳電話会談を行い、両首脳は慰安婦問題をめぐる対応に関し11月の日中韓サミットの機会に行われた日韓首脳会談から協議を加速させ合意に至ったことを確認し評価した。安倍首相は「日本国の内閣総理大臣として改めて、慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒やしがたい傷を負われた全ての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを表明」し、「慰安婦問題を含めた日韓間の財産・請求権の問題は1965年の日韓請求権・経済協力協定で最終的かつ完全に解決済みとの我が国の立場に変わりはないが、今回の合意により慰安婦問題が『最終的かつ不可逆的に』解決されることを歓迎」した。朴大統領は今次外相会談によって慰安婦問題に関し最終合意がなされたことを評価するとしたうえで新しい韓日関係を築くために互いに努力していきたいと述べた。

文在寅(ムン・ジェイン)

(1953年1月24日~ )

第19代大統領

2015年12月に結ばれた慰安婦問題日韓合意については「問題の本質は10億円ではなく、法的責任認定と公式謝罪だと国民は考えている」として批判的。

 

「朴槿恵政権による屈辱的な合意」と批判。「間違った交渉は必ず正す」と宣言した。

大統領選挙の終盤戦となる2017年5月:「日本との慰安婦合意は間違っている」と発言

大統領就任前2016年7月:竹島(韓国名:独島)に上陸芳名録に「東海のわが領土」などと書き込んだ。

次期大統領選の準備のためとみられるが、文側は竹島、上陸の目的について植民地支配からの解放日とされる『8・15』を前に、我々の領土主権を確固たるものにすべきとの考えで訪問したとしている。

8月:慰安婦問題日韓合意に関する会談において外務省アジア局長による抗議がなされた。2017年11月:アメリカ合衆国トランプ大統領が訪韓した際の晩餐会では、竹島近海でとれたエビを独島えびと称して振る舞った。 後日、日本政府から外務省を通して抗議。

日本統治時代の朝鮮人徴用工の賠償請求の問題について、

2017年8月:文は「両国間の合意が個々人の権利を侵害することはできない」として個人請求権は消滅していないとの見解を表明した。

この表明について8月:電話会談で安倍晋三から「日韓請求権協定で解決済み」との憂慮を伝えられた文は「国家間の問題解決とは別に個人請求権は存在するというのが韓国最高裁の判断である」と発言の趣旨を説明する一方、国家間の請求権問題は日韓請求権協定で解決していることを認めた。

安倍首相は判決に対応しない文大統領への「戦略的放置」を決定したとされ、資産差し押さえについては報復措置も関係省庁に指示した。

文在寅は「日本の指導者が政治的な争点とし問題を拡散させている」と安倍首相を批判。

 

2018年5月:メーデー労働団体が釜山の日本総領事館前に徴用工像を建てようとしたが、外国公館周囲での集会や行進が禁じられていることを理由に韓国警察が阻止した。

文の初訪日の直前であること、また小渕恵三と金大中によって出された日韓パートナーシップ宣言から20年という節目にあたることから、関係悪化を避けたい文政権の意向ではないかと報道されている。

韓国政府はこの件について「強制徴用という残酷な歴史を忘れずに直視する意味で像を建立するという趣旨に共感し市民の関心と募金により作られた像を何よりも大切に思う」としつつ「外交公館に対する国際礼譲や国内法などを勘案すると、団体側が設置しようとしている場所よりは、犠牲者追悼と後世に対する歴史教育のためによりふさわしい場所に設置することが望ましい」とする声明を出した。

大韓民国歴代政権の対日政策を見てきた、

「総論」に移りたいがもう一歩だけ丁寧に進める為、民族を育てた儒教と朱子学に

ついて少し学びたいと思う。

 

これまでのシリーズ

「朝鮮半島の歴史」(前編)

「朝鮮半島の歴史」(中編)

「朝鮮半島の歴史」(後編)

 

 

 

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