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「朝鮮半島の歴史」(後編)

「朝鮮半島の歴史」(後編)

はこの事件から始めよう。

 

金大中は、1971年大韓民国大統領選挙で   新民党(当時 野党)の正式候補として、立候補 したが、民主共和党(当時与党)の候補の、朴正熙(パク・チョンヒ)に、わずか97万票差で敗れた。

 

朴は金の人気に危機感を覚えた。

大統領選直後、大型トラックが金の車に突っ込み、3人が死亡。金は(腰・股関節)に障害を負った。

後に、韓国政府は交通事故を装った暗殺工作であったことを認めている。

翌年、朴は非常事態宣言を発布し憲法を無視して国家を戒厳令下においた(十月維新)。

 

海外にいた金は「帰れば殺される」との判断で帰国を断念。

日本・アメリカに滞在し韓国の民主主義と自由選挙を求める運動を行った。

 

朴の側近であった李厚洛がご機嫌とりの為に政敵である金を拉致する計画を立てた?

 

1973年(昭和48年)7月

民主主義の活動家として名声を得た金は、日本自民党左派の招待で講演のため東京を訪問したが、朝鮮人の友人達から「ヤクザたちが狙っている」との忠告を受ける。

直ぐに、亡命者生活に入り、2~3日ごとホテルを変え、日本人の偽名を使った。

 

1973年(昭和48年)8月8日午前11時頃、金は東京のホテルに病気療養のため宿泊していた梁一東(ヤン・イルトン)民主統一党(当時)党首に招かれ会談した。

会談を終え部屋を出た金は6、7人に襲われ、空部屋に押し込まれ、クロロホルムで意識が朦朧となった後、車に乗せられた。ホテルから自動車で関西方面(神戸)のアジトに連れて行かれ、その後工作船で神戸港から日本を出国したと見られる。金大中は「船に乗るとき、足に重りをつけられる」しかし事件を察知した(当時の厚生省高官の通報によるとされる。またアメリカ政府もこのことを察知していたとされる)海上保安庁のヘリコプターが拉致船を追跡し、照明弾を投下するなどして威嚇したため、日本政府に拉致の事実がばれたことを知った拉致実行犯は金大中の殺害を断念し釜山まで連行しソウルで解放した。

 

金大中自身、日本のマスコミとのインタビューで、甲板に連れ出され、海に投下されることを覚悟したときに、追跡した日本のヘリコプターが照明弾を投下したと証言している。拉致から5日後、ソウルの自宅近くのガソリンスタンドで解放され、自力で自宅に戻った。

直後に自宅で記者会見を行った際、日本人記者団に対して、解放された直後の心境を、「暗闇の中でも尚 明日の日の出を信じ 地獄の中でも尚 神の存在を疑わない」

と日本語でメモに記した。

 

その後、

国家間では、表向きは政治的な決着は無いまま、外交特権の壁により放置された。

金大中自身も、後に大統領に就任するが、真相を語る事は無かった。

金 大中(キム・デジュン)

1925年12月3日~ 2009年8月18日)

第15代大統領(在任:1998年 ~ 2003年)

 

1971年:大統領選 朴正煕に敗れる

1973年:拉致事件

 

1976年3月:「民主救国宣言」を発表

    逮捕・懲役判決を受ける。

1978年3月: 釈放された。

1979年10月:朴正煕暗殺事件が起きる 民主化の機運が高まる「ソウルの春」

   金大中・金泳三・金鍾泌 3人の民主化リーダーが注目される。

1980年2月:公民権を回復 政治活動を再開する

1980年5月:再び逮捕 これが原因となって光州で起きた民主化要求のデモを

           軍部が武力鎮圧する。流血の大惨事となった(光州事件)

   事件首謀者「韓国民主回復統一促進国民会議」議長とされ、死刑判決を受ける。

1982年1月:閣議決定により無期懲役に減刑、   

     12月:米国へ亡命中 刑の執行を停止。

 

1985年2月:亡命先 米国から帰国を強行

        軟禁状態に置かれた。

    3月:全斗煥大統領により政治活動を

                        解禁された。

1987年   :再び公民権を回復。

 

16年ぶりに直接選挙制で行われた大統領選挙で平和民主党を結成して、保守で全斗煥後継の軍人出身:盧泰愚に挑むものの、金泳三と分立した為、勢力の分裂を招いて敗北した。

(金泳三と金大中の得票率合計は55% 当選した盧泰愚 36・6%)

 

1989年1月:昭和天皇崩御により、在韓日本大使館に設置された焼香所で90度のお辞儀を                           して拝礼をした。

 

1992年      :金泳三、鄭周永、を相手に大統領選を戦うも再び敗北。

                        これをもって金大中は一時、政界引退を表明した。

 

1995年   :新政治国民会議総裁に就任。政界復帰した。

1997年大統領選挙では、

与党ハンナラ党 李会昌と李仁済を相手に選挙を戦った。与党の強力な集票力に当選が危ぶまれたが、結果 自らの地盤である全羅道地域で圧倒的な支持を得たことに加えて、協力を得た保守派:金鍾泌の地盤である忠清道地域、浮動票の多い首都圏での支持を得ることに成功した。

また、李仁済の立候補により保守票が割れたことにも助けられ、当選した。

 

大統領に就任したのはアジア通貨危機の直後であり、経済的な危機は続いていた。金大中政権は引き続きIMFの介入を全面的に受け入れた上で、経済改革に着手した。IT産業奨励やビッグディール政策(財閥間の事業交換、統廃合)をもって経済建て直しを図った。

危機を脱した韓国は内外から「IT先進国」と呼ばれるようになり「サムスン電子」や「現代自動車」の世界市場での地位を高めた。しかし、急激な産業構造の転換は貧富の格差の増大などを招いた。そのため、医療保険や年金など福祉政策の拡充にも重点を置いた。

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に対しては「太陽政策」と称される緊張緩和政策を志向した。2000年6月北朝鮮の首都平壌で金正日国防委員長との南北首脳会談が実現し、6.15南北共同宣言を締結した。

功績で「ノーベル平和賞を受賞」した。

ただ、太陽政策は困窮で崩壊直前とされた北朝鮮を救い継続させ、後の核実験成功や核兵器保有に繋がったとする批判がある。

 

報道では、会談実現のために金大中から現代グループを通じて、4億~5億ドルが金正日に渡ったとされる。

金大中は自身の死去(2009年8月18日)の約2か月前に、文在寅、朴智元、丁世均、安熙正らを呼び、「必ず政権交代を果たしてほしい。私は年老いて、先が長くない あなたたちがしなければならない」と言い遺していた。この金大中の「遺言」を受けて文在寅は政界入りを決意し、8年後の2017年5月9日の大統領選挙に当選して第19代大統領に就任した。

盧 武鉉(ノ・ムヒョン)

(1946年9月1日~2009年5月23日)

第16代大統領(2003年2月25日~2008年2月24日)

歴代大韓民国大統領で初の日本統治時代を経験していない世代の大統領である。

 

小学校から「神童」と呼ばれ優秀だったが、中学では貧困さ故に

1年休学、何とか高校までは卒業した。

銀行マンを志し、農協の就職試験を受けるも叶わず、卒業後には小さな魚網会社に就職するがその待遇に失望、一カ月半で退職。

司法試験への挑戦を決意する。当時高卒では司法試験を受ける資格が与えられなかったが故郷に帰り、日雇い労働をしながら1966年11月:資格試験(司法及び行政要員予備試験)1971年:三級公務員の一次試験に合格。1968年から1971年の兵役をはさんで勉強を続け1975年:29歳で司法試験に合格した。

 

司法研修院を終え、1977年大田地方法院(裁判所)判事に就任。

1978年判事を辞めて弁護士事務所を開業。

当初は登記業務・不動産・租税関連の訴訟を専門としていて、ヨットが趣味で琵琶湖でのイベントに参加するなど、釜山でも稼ぎのいいブルジョア弁護士として知られていた。

しかし1981年別の弁護士の代理で「釜林事件」の弁護を引き受けて、「学生運動」に関わった事が転機となり(アスファルト弁護士)に変貌した。

 

1982年:文在寅と「弁護士盧武鉉・文在寅合同法律事務所」を開設。

1982年:釜山アメリカ文化院放火事件では被告側弁護人1985年:釜山民主市民協議会の常任委員長となり、

1987年:大統領直接選挙制を求める6月抗争を主導し、

大宇造船事件では逮捕と拘留も経験している。

後年、「人権派弁護士への変身は覚悟や決意を要求されたものではない」と語った。

「平凡な常識と良心」そして「拷問されて真っ黒になった学生の足の爪」を見ての憤りと 怒りであったと自著に記している。

金大中(キム·デジュン),盧武鉉(ノ·ムヒョン)の10年左派政権は、IMFを克服し、「大企業の専門化」「ITとベンチャー」「韓流文化産業」など新産業を育成した。

そして、2007年大統領選挙の結果、保守政党の李明博(イ・ミョンバク)に政権を譲るようになる。

盧武鉉本人は時間が経って歴史が評価してくれることとし、比較的淡々と政権交代を受け入れる。

 

退任後、盧武鉉の側近・親族が相次いで逮捕された。2008年11月:盧武鉉政権側近が贈賄容疑で逮捕された。また、盧武鉉兄:盧建平の贈収賄が疑惑が浮上した。

兄:盧建平は、逮捕されるまでは「ポンハ大君」「大先生」「慶南大統領」と呼ばれ、その後に、数々の汚職に関与していたことがわかった。

 

2009年8月:盧武鉉の秘書官が大統領特殊活動費を着服したことや、盧武鉉の支援者から金品を受け取ったことで横領と収賄罪で懲役6年の実刑判決を受けた。

さらに盧武鉉自身も捜査対象となり、2009年4月:韓国最高検察庁が合計600万ドル(約6億円)を超える不正資金疑惑について、包括収賄罪の容疑で本人に事情聴取を行なった。

 

盧は飛び降り自殺の2カ月前「”政治”するな。得られものに比べ、失わなければならない事のほうがはるかに大きいから。」「大統領になろうとしたことは間違いだった」と韓国の大統領になったことを後悔する文章を残した。

 

検察当局は、調査の後、拘束か在宅かをめぐって、1ヵ月近く結論を下していなかった。

廬武鉉は

2009年5月23日早朝、自宅の裏山のミミズク岩と呼ばれる岩崖から投身自殺を図り、頭部を強打するなどして死去した。62歳没。

先の事情聴取から1ヶ月足らずの出来事であり、韓国国内に大きな衝撃を与えた。

盧が常用したとされるPCから自身が書いたと思われる遺書が発見され、その全文が公開されている。「非常に多くの人に面倒をかけた。(以下略)」と、上記の贈賄疑惑に関する心境が書かれていた。韓国国民の56%が李明博大統領は盧武鉉前大統領の死について謝罪するべきだとしている。6月:学界は謝罪と総辞職を求める宣言を出した。同日、検察総長が辞表を提出、「原則と正道、節制と品格に基づいた正しい捜査、政治的不公正論争のない公正な捜査で、国民の信頼を一段階高めようとしたが、力不足だった」と声明した。

李 明博(イ・ミョンバク)

(1941年12月19日 ~ )

第17代大統領・ソウル特別市長を歴任

日本大阪で生まれ1945年日本の敗戦時に、密航船で家族と共に韓国に移る。

 

極貧の中アルバイトをしながら高校・大学を卒業し、

当時数十人規模の零細企業だった現代建設に入社する。

29歳で取締役、36歳で社長、47歳で会長に就任

現代建設は従業員数16万人規模の大企業として成長した。

その経歴から「現代の韓国を創った50人」に選ばれるなど、立身出世した経済人として政界入り前から著名である。猛烈人生は既に何度もドラマ化された他(「野望の歳月」(1990年、KBS)、「火の鳥」(2004年、MBC))、現代建設を退職し政界入りする際に出版した自叙伝『強者は迂回しない』(日本語訳は2008年10月に『李明博自伝』として新潮文庫より刊行)はベストセラーとなっている。

2002年、ソウル市長選で当選するとインフラ整備を大々的に進めた。ソウル中心部を通り抜ける清渓高架道路を取り除いて「清渓川」を復元し、市民の憩いの場だけでなく生態系の宝庫にした。「ソウルの森」はニューヨークのセントラルパークやロンドンのハイドパークのような市民の憩いの場を目指して2005年6月にオープンし、ソウル市民に40万本木々、鹿を始め、100種以上の動物が生息する広大な自然空間を提供。

2006年5月、タイム誌アジア版は「ソウル、かつてのコンクリートジャングルのシンボルは緑のオアシスにその姿を変貌させ、他のアジア都市に環境に対する愛情を教え込んでいる」と、清渓川に素足を入れた李の写真を添えて紹介した。2007年10月、タイム誌はアメリカのアル・ゴア元副大統領とともに「環境の英雄 」に選定した。

 

保守ハンナラ党予備選では、朴槿恵(次期党首)を破り公認を勝ち取り2007年大統領選に勝利する。 経済に強い大統領としてリーマンショックなど苦難を乗り越えた。

 

任期の終盤は、韓国大統領にとってお決まりとも言える、過度で強固な対日政策に移行します。皆さん思い出したように始めるのが面白いので後で特集を組みます。

 

そして昨年のニュース

2018年10月:韓国の李明博(イ・ミョンバク)元大統領(76)が収賄や横領などの罪に問われていた裁判で、ソウル中央地裁は5日、懲役15年、罰金130億ウォン(約13億円)を言い渡した。判決公判はテレビで生中継されたが李被告は体調不良を理由に出廷しなかった 公判で裁判官は「全ての事情を考慮すると、被告人に対しては重罰が避けられない」と述べた。  李被告は4月に収賄や横領、職権乱用など16の罪で起訴された。

 

朴 槿恵(パク・クネ)

(1952年2月2日 ~ )保守派

第18代大統領。

2012年の大統領選挙で革新政党民主統合党の文在寅に勝利。2013年2月に東アジア・韓国史上初の女性大統領に就任した。

セウォル号沈没事故への対応不備や崔順実ゲート事件など一連の不祥事により、2017年3月大統領罷免

 

どうやら、評価できる事といえば唯一外交面のようだ、東洋人の女性大統領として西洋諸国ではもてはやされたようである。本人も充分に理解していたようで最大限に利用した。

実際は、かなり怖い人だったようであるが・・・

朴槿恵は「独裁者の娘」と国内外から批判された。父の朴正熙と同様の権威主義体制との指摘もされ、大統領選では諜報機関がソーシャルメディアを使い対立候補を誹謗中傷していた事が暴露されている。この事件を告発した検察官は、不倫疑惑で辞任したが、大統領府高官が、この検察官の私生活を違法に紹介したとされ「強権的」「公安統治の復活」とも

非難された。

 

2013年12月には、北朝鮮を支持する国家反逆的な声明を出したという理由で、政党の解散請求を行っている。

国家保安法に基づく立件は、2008年には31件であったが、2013年には102件へ増えた。 また、父:朴正熙を事実上の終身大統領にした非民主的な「維新憲法」の草案を作成した旧KCIAの元幹部「金淇春」を大統領府秘書室長として重用、朴槿恵政権に批判的な文化人をリストアップするなどした。

 

朴槿恵体制では、弾劾デモが起きた際は、軍は戦車と装甲車をソウルに展開して戒厳令を敷くことを計画していたとされる。

 

文在寅(ムン・ジェイン)

(1953年1月24日~)

(2017年5月~2022年5月任期)

第19代大統領 

2012年12月:大統領選挙では朴槿恵に惜敗。

朴槿恵弾劾・罷免に伴う2017年5月大統領選挙で当選在任中

 

朝鮮戦争中 幼少時代に家族とともに脱北避難民として韓国に渡った。

貧困を乗り越え、司法試験に合格

盧武鉉(ノムヒョン)の法律事務所に入所した。

「弁護士盧武鉉・文在寅合同法律事務所」を開設。

時の全斗煥政権に反対する民主化運動に取り組んだ。

 

民主化直後の1988年に野党:統一民主党の総裁:金泳三から盧武鉉、金光一とともに、国会議員選挙への出馬を勧められ、文だけは政界入りを断った。

 

政界入りの誘いを受け続け、当時大統領候補だった盧武鉉から数回、釜山市長選挙出馬を勧められたが固辞した。

 

2002年12月:大統領選挙 盧武鉉が立候補した際は、釜山地域の選挙対策本部長を務めた

が、盧の当選後は文は弁護士業務への復帰意思を示した。

2003年2月:盧武鉉政権が発足すると大統領府(青瓦台)民情首席に就任したが1年で辞任2004年3月:ヒマラヤへ登山旅行中に盧が国会に弾劾訴追されたことを知り急遽帰国して盧の弁護団幹事となる。

2004年5月:盧に対する弾劾訴追が憲法裁判所に棄却されると青瓦台に復帰する。

2007年には大統領秘書室長となるなど、盧武鉉大統領の側近として活躍した。

常に盧武鉉の側にあったことから「盧武鉉の影法師」の異名をとった。

2008年2月:盧武鉉が大統領の任期を終えて退任すると文は釜山で弁護士業務を再開。2009年5月:盧武鉉の自殺時、国民葬を葬儀委員会常任執行委員長として取り仕切った。また、盧の死後に設立された盧武鉉財団の理事(のちに理事長)に就任した。

2009年6月:盧武鉉の死後、金大中に「必ず政権交代を果たしてほしい。私は年老いて病気で先が長くない。あなたたちがしなければならない」と言われ、文は政界入りを決意。

 

そのときの心境を、「あなた(盧武鉉)はもう運命から解き放たれましたが、私はあなたが残した宿題に縛られることになりました」と語った。

2012年大統領選

 

野党民主党、公認候補、予備選挙8月~ 全国13地域すべてで1位を獲得、最後に投票されたソウル市も含めて累積得票数34万票7,000票あまり得票率56.5%となり

孫鶴圭、金斗官、丁世均らを大差で破って民主党の大統領候補に選出された。

 

野党系の安哲秀(無所属)と候補を一本化12月の本選では左派政党の進歩正義党の支援も受けた

(進歩正義党の立候補予定だった沈相奵は朴槿恵の当選阻止のため立候補辞退文を支援)20代~40代の支持で与党セヌリ党候補の朴槿恵を大きく上回り、民主党の地盤の全羅道(光州市・全羅北道・全羅南道)で朴槿恵を圧倒、ソウル市でも勝利した。

全国で14,692,632票・得票率48.02%を得たが、15,773,128票・得票率51.55%を得た与党の朴槿恵に3.5ポイントという僅差で惜敗した。

2016年12月:朴槿恵が国会に弾劾訴追されたあと、野党候補による討論会では、「親日と独裁が受け継がれ、常に韓国社会の主流になりすましてきた偽保守の時代をもう終わらせなければならない」とし、

各分野における「積弊の清算」を強調、「公正社会の出発は検察改革などを通じて権力機関を正常化すること」「財閥改革、行政改革、入試改革など、不公正な構造と慣行を正さなければならない」「特に兵役逃れ不動産投機、偽装転入、脱税、論文剽窃など5大不正の関連者は高位公職から排除すべき」と述べた。

経済問題については「最初の課題は不公正な財閥経済を打破すること」「財閥関係者が市場に反する重大な犯罪を犯した場合、執行猶予が不可能になるように法定刑を引き上げ、赦免を禁止して法執行の公正性を確立しなければならない」と話した。

このほか、循環出資・相互出資に対する根本的な手術、懲罰的損害賠償制の強化など不公正取引の根絶、非正社員の差別禁止特別法の制定などを提案した。

朴槿恵 大統領 弾劾・罷免に伴う2017年5月の大統領選では、歴代最大の得票差で圧勝し第十九代大統領に就任する。

 

就任1年後、2年後、共に、高いの支持率を確保しており、歴代政権でも金大中政権と比較される人気の高い大統領である。

 

2022年5月の任期終了まで、3年以上残した段階で、苛烈な対日政策を展開しており、これまでの韓国大統領の伝統的な政策手法とは異なっている。

これには「保守政権の流れから政権ダッシュに成功した事(金大中への思い)」「同士であり、非業の死を遂げた廬武鉉元大統領への思い」など、文在寅の個人的な感情が大きく影響しての事だろう。しかしお国柄、始めてしまったからには後へは引けない「後の政権へのバトン」にしては早すぎるのだ・・・

 

「朝鮮半島の歴史」(後編)はここまでにしよう、

次は「大韓民国」初代から歴代政権の対日政策に絞ってみる。

それを終えてから、朝鮮と日本を語りたいと思う。

 

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