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朝鮮半島の歴史(中編)

【李氏朝鮮】(1392~1897)

1392年 高麗の武将:李成桂(女真族ともいわれる)が

恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位した。明に使節を送ると、明:洪武帝は王朝が交代したので、国号を変更するよう命じた。李成桂は、「朝鮮」と「和寧」の二つの候補を準備し、明:洪武帝に選んでもらった。

李成桂は翌1393年に権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。

 

明と朝鮮の関係は、宗主国と属国、君臣父子の関係であり「李氏朝鮮は中華の分身の小中華・東方礼儀の国」と自称して、君臣父子の礼をもって、宗主国の明に仕える関係に立って事大外交を繰り広げた。

事大・属国とは征服・植民地とは異なり、道徳的・観念的なものであり、汚らわしいものではないとする 朱子学や儒教思想に基づいた関係とされた。この関係を後の日本外相:陸奥宗光は朝鮮との折衝で「中国と朝鮮の宗属関係はなんとも複雑怪奇」と嘆いている。 

李成桂は新たな法制の整備を急ぎ、

また、漢陽(今のソウル)への遷都を進めた。

 

 崇儒廃仏(儒教を崇拝し、仏教を排斥する)政策をとり、儒教の新興と共に仏教の抑圧を開始した。

しかし、この政策は李成桂が晩年仏門に帰依したため一時中断され、本格的になるのは李成桂の亡くなった後の第4代世宗の時代になる。 仏教弾圧の理由には、前王朝高麗の国教が仏教であったということが大きな理由の一つとして挙げられる。

 

李成桂は八男・李芳碩を跡継ぎに考えていたが、他の王子達がそれを不満とし、王子同士の殺し合に発展。

1398年:第一次王子の乱

李芳碩が五男・李芳遠(後の太宗)により殺害され、李成桂は、ショックで次男の李芳果(第2代定宗)に譲位した。しかし定宗は李芳遠の傀儡に過ぎ無かった。

1400年:第二次王子の乱

四男・李芳幹による反乱。李成桂は完全に打ちのめされ、仏門に帰依する事になる。

反対勢力を完全に滅ぼした李芳遠は、定宗より譲位を受け、第3代太宗として即位する。

 

太宗は、内乱の原因となる王子達の私兵を廃止すると共に、軍政を整備し、政務と軍政を完全に切り分ける政策を執った。またこの時代に朝鮮の科挙制度、身分制度、政治制度、貨幣制度などが整備された。 明に対しては徹底的な親明政策を執り、1401年には明から正式に朝鮮王の地位に冊封される。

太宗は、1418年4代世宗に王位を譲り上王になった。

 

4代:世宗の時代が、朝鮮の中で政権が最も安定していた時代とされる。王権は強固であり、また王の権威も行き届いていた。一方で1422年まで太宗が上王として実質的な権力を保持していた。

世宗は、まず政治制度を王の一極集中型から議政府を中心にした官僚主導の政治に切り替えた。また、明との関係を良好に保つための人材育成にも力を入れた。その中の作業の一環として、現在のハングルの元になる訓民正音の編纂作業が行われた。

 

世宗の時代は31年に及び、軍事的安定と政治的安定のバランスが取れていた時代である。また、この時代に貨幣経済の浸透が進んでいった。

対外的には侵攻戦争をたびたび行い、 即位の翌年には(1419年)上王:太宗主導の下、「対馬への侵攻」を指示したが、 対馬国守護大名の宗貞盛の奮戦により大損害を被り、撤退した。1437年には女真地域へ侵攻し制圧支配した。その後も女真とは対立を続け幾度も侵攻に乗り出している。

第6代:端宗(第5代文宗の息子)は11歳で即位したため、政治は官僚が決裁する形となり、王権の空洞化が進んだ。他の王族の勢力が強くなり、宮廷闘争が頻発する。混乱の中で、5代:文宗の弟であり6代:端宗の叔父:首陽大君は、1455年に端宗に圧力をかけて王位を譲らせ、自ら国王となった(7代:世祖)。世祖は反対勢力を強力に排除し、王権を集約する。高級官僚は自らの側近で固められたため実力のある者も高位には就けなくなった。

7代:世祖に優遇された功臣達は「勲旧派」と呼ばれ、その後の政治を牛耳るようになる。

1467年「李施愛の乱」では批判勢力を弾圧したが、鎮圧に活躍した亀城君李浚(世宗の四男臨瀛大君の次男)ら王族が台頭した。

世祖の死後8代:睿宗が即位したが19歳で逝去。1469年に幼王 9代:成宗が即位し、国政は不安定になった。1470年大臣達は、王族の政治への関与を禁止した。

政治の中枢から王族は排除され、政治の中枢は勲旧派が占め、かれらが政治を壟断したが、成宗の親政時代になると「士林派勢力」(元々は「朱子学」を修めた新興の科挙官僚)を取り入れ、勲旧派や外戚と対立を産む。 成宗が亡くなり、10代:燕山君が王位に就くと、勲旧派と士林派による対立が表面化する。

燕山君はとくに士林勢力を疎ましく思っており、1498年「戊午士禍」がおきる。 多数の士林派が王宮から追放された。その後も燕山君は、 1504年「甲子士禍」で 士林勢力と勲旧勢力の無差別大量殺戮を行い、官僚勢力を殺ぐ事につとめたが、1506年、朴元宗・成希顔・柳順汀ら官僚のクーデターにより廃位追放された。11代:中宗の時代も勲旧派と士林派の対立は止まらず、政局の混乱が続いていた。中宗は最初、士林派を積極的に登用していたが、改革が性急で不安を感じ、1519年士林派は投獄、追放、死刑などにされる。「己卯士禍」その後も、勲旧勢力と士林勢力は繰り返し衝突し、政局は混乱を続けていた。

1545年に13代:明宗が12歳で即位すると、政治の実権を巡って乙巳士禍」がおきる。

 

戊午士禍、甲子士禍、己卯士禍、乙巳士禍の事を「四大士禍」と呼ぶ。

 

士禍(しか)とは、李氏朝鮮時代における士(官僚)に対する粛清(弾圧)の事を差す。「士林(士林派)の禍」の略語

1567年14代:宣祖の即位により、士林勢力が最終的に勝利を収め、士林派が中心の時代が始まった。

 

1575年には西人・東人 2派に分裂し互いを牽制していたが、1584年に西人が主導権を握るが、1591年に世子冊立の問題で西人が失脚すると、東人が以後30年、政権を掌握した。東人は強硬派の北人と穏健派の南人の2つの派閥に分裂した。

その頃、豊臣秀吉は大陸進出のために、1589年対馬を通じて、朝鮮に「日本服属し明征討の為の道を貸すべし」とする外交を取り始めた。

李氏朝鮮側では日本の真意をはかりかね、日本の本意を探るため1590年3月通信使を送ることにした。 1591年3月に通信使が帰朝する。

正使は「日本は多くの軍船を用意して侵攻の準備をしている」と報告、副使は正反対の 「秀吉は恐れる必要は無い」と報告をした。朝鮮官僚は、相反する報告を受け取った為、自派の意見を擁護して論戦になったが、王自身が戦争を心理的に忌避したことから「侵攻説をむやみに流布することで民心を乱す行為は良くない」と言う結論に達し、防衛準備を放棄し、準じる行為も禁止した。

しかし1592年になり、朝鮮の倭館に居た日本人が、次々に本国に帰っていくのを見ると、遅まきながら、秀吉の朝鮮出兵は本気であることに気が付き、慌てて防衛準備を始めるが時既に遅しであった。

1592年4月「文禄の役」態勢の整わない朝鮮軍は各地で敗北を重ね、豊臣軍に国土を制圧された。

豊臣軍は開戦半月で首都漢城を攻略し、数ヶ月で朝鮮の北辺まで進出した。朝鮮政府は有効な手立てを打てず、治安悪化により全土で国土は疲弊した。それに対しての危機感と、日本への反感を持った民衆が抵抗を開始した民衆の中には、朝鮮政府の圧政腐敗に不満を持っているものも多く、豊臣軍に味方した者も相当数に上った。

明の援軍が進出すると、豊臣軍は交渉解決へ移行して戦線が膠着し、翌年日本と明は和議交渉の過程で朝鮮南部の沿岸へ一旦兵を引き上げた。

しかし、和議は失敗に終わり、1597年1月再び秀吉軍は朝鮮半島へ侵攻する「慶長の役」

泥沼状態になった戦争は、秀吉の死去によって終結し、豊臣軍は引き上げた。この7年間に及ぶ、戦乱によって、腐敗が進んでいた、朝鮮の政治・社会は、崩壊寸前まで追いやられ、経済的にも破綻寸前の状態に陥った。

 朝鮮官僚は、増収の案として「納粟策」を提案した。賤民も一定の額を払えば平民になれ、平民も一定の額を出せば両班になれることとなった。この制度によって、朝鮮の身分制度は大きく流動し、その構成比率は大幅に変化した。新しい体制が生まれ、政治は一時的に活気が蘇った。一方、明は戦争で多大な出費を余儀なくされ、国力の弱体化をもたらした。これは周辺異民族への明の抑えが利かなくなるという事でもあり、女真族の勢力伸張をもたらし、後の明滅亡の遠因になった。

朝鮮では政争が続き、14代:宣祖の世子の跡継ぎ問題では、長男臨海君が排除され、光海君を世子とすることに決まった。

1608年15代:光海君が王位につくと、破綻した財政の再建と現実的な外交を展開した既に、江戸時代に移行していた日本とは1609年に和約した。一方、弱体化した明、それに乗じて伸張した後金(清)に挟まれ、 二極外交を展開することになる。これらの政策は、民衆や、二極外交に反対する保守的な事大主義者などの恨みを買うことになった。

1623年2月 光海君は自身の甥の綾陽君と西人勢力によって宮廷を追放され廃位になる。西人勢力は敵対勢力を宮廷から追放し、綾陽君を擁立、16代:仁祖として即位させた。

仁祖と西人派はクーデターの後、粛清を行い、敵対勢力は小北派の一部を除いてほぼ消滅する。そして、西人を主とし南人を副とする党派体制を確立する。外交政策は明と後金の二極外交から、 親明外交へと展開したが、政策は裏目に出た。後金は1627年、3万の兵力で朝鮮に侵入した。朝鮮は敗北を重ね、仁祖は、江華島へ避難。その後、戦局が膠着し、後金側は講和に応じた。

既に余力が無い朝鮮側は、講和の条件をすべて呑む。 後金を兄、朝鮮を弟とし、以後一切朝鮮は後金には敵対しないとして講和した。

講和が成立すると、一旦、後金軍は撤収する。

仁祖は防衛力を見直し、1628年にオランダより大砲を導入するなど軍事力を強化した。

1636年、後金は清と国号を変更し、朝鮮に対して清への服従と朝貢、及び明へ派遣する兵3万を要求してきた。

朝鮮がこの要求を拒むと、清:太宗(ホンタイジ)自ら12万の兵力を率いて再度朝鮮に侵入した。

 

朝鮮側は籠城したものの、食料は50日分ほどしかなく、45日で降伏し、清軍との間で和議が行われた。

この和議の内容は清に服従すること、明との断交、朝鮮王子を人質として送ること、莫大な賠償金を支払うなど11項目に及ぶ屈辱的内容であり、仁祖はホンタイジに対し三跪九叩頭の礼(三度跪き、九度頭を地にこすりつける)をし、清皇帝を公認する誓いをさせられる恥辱を味わった。清に対する服属関係は日清戦争の下関条約が締結され、朝鮮が清皇帝を中心とした冊封体制から離脱する1895年まで200年以上続くことになる。

政治・経済・外交とも、混乱の極みの時代ではあったが、この時代は多くの学者を輩出し、朝鮮朱子学である性理学の大きな発展が見られた。

仁祖は貨幣経済の立て直しを図った。朝鮮では貨幣の材料である銅を日本に依存していたため「慶長の役」以降は、まともな貨幣が造れない状態が続いていた。仁祖は貨幣としての価値を失った「朝鮮通宝」の代わりに「常平通宝」を流通させ、貨幣経済の流通を促そうとしたが、思うように進まなかった。

17代:孝宗の時代に入ると反清論はさらに高まり、軍備の増強が進められたが征清の機会は訪れないままに終わった。この時期ロシア・ツァーリ国が勢力を広げており、清の要請に応じ、征伐のための援軍を派遣している。

18代:顕宗の時代に入ると、社会的には平穏な時代が続く。しかし発達した朝鮮朱子学が禍となり、西人と南人による政争が政局の混乱をもたらした。顕宗は終わりのない論争を止めさせるため厳罰を決めたが、政争は続き、西人派が失脚し南人派が朝廷を掌握する。

19代:粛宗の時代に入ると、党派政争はさらに激しくなったが粛宗は政局を操作し党派勢力の弱体化と王権の拡大を試みた。

社会の安定に力を入れ、常平通宝の鋳造・流通を行うなど経済政策にも力を入れた。

 

この時代には清との間での領土問題や日本との間に「鬱陵島とその周辺の島々」の帰属問題が起きた。 江戸幕府は鬱陵島を朝鮮領土として承認し、同島への日本人の立ち入りを禁止するという協約を結んだ。

現在日韓で問題となっている竹島=独島の帰属問題で、韓国側はこの交渉の際、竹島=独島は鬱陵島と同様に朝鮮領土と合意されたと主張しており、対して日本側はこの交渉に竹島=独島は含まれていないと主張している。

1720年に粛宗が亡くなると再び党争は激化し、20代:景宗が即位すると、主力勢力であった老論が権力争いに敗れ、少論が政局を握った。少論派は老論の粛清を行った(辛壬士禍)

景宗は短命で亡くなり、

1724年21代:英祖は官僚を各党派からバランス良く登用して熾烈な政争を抑えた。各党派は自己の党勢の拡大のために様々な策を弄してこれに対抗したが、英祖は政策を強化し政治は安定した。その裏で各派は世子問題などを利用して主導権を握ろうとの計略を何度も実行した。1762年英祖が健康上の理由で、荘献世子に公務の代理を務めさせようとすると、南人勢力は荘献世子側に付き、老論勢力はこれに反発する王后や王女などを巻き込み、英祖との離間策を試みた。この策は上手くはまり、荘献世子は精神を病んでしまい異常行動を取るようになった。それに激怒した英祖は自決を命じ、最終的に米びつに閉じ込め餓死させられる。

深く悔やんだ英祖は、党派抑制をさらに強めるが、党派の分裂はさらに混乱を極めた。

英祖の治世は52年と非常に長く続いた。

22代:正祖の時代では、新たな局面を迎える。

謀殺された荘献世子の息子であった正祖は、1776年に王位に就くと反対勢力の老論排除を進めた。

側近で朝廷内を固める政治が行われたが、王妃の毒殺未遂事件が発覚すると、側近は追放された。

 

正祖による文化政治が行われる。派閥ではなく実力によっての人材登用を行うという政策であった。正祖は党争を嫌っていたものの、父の死を正当とする僻派の勢力より父の死に同情的な時派寄りの立場を取った。しかし、僻派と時派による政治的党争は依然として続いたままであった。1800年、23代:純祖は10歳で即位したため、英祖の継妃であった貞純王后が、代わりに執政を行った。貞純王后は僻派の利権を優先する政策を採った。反対派を大量殺戮し僻派政権を樹立させる

またカトリックの弾圧を強化した。(1801年辛酉教獄)この弾圧でカトリック信者、巻き込まれた者もあわせて数万人が犠牲になったと言われている。カトリックへの弾圧は、この後も1815年、1827年、1838年、1839年(己亥教獄)、1846年(丙午教獄)1866年(丙寅教獄)など断続的に行われた。

1802年、金祖淳の娘が王妃になる。

14歳になった純祖による親政が始まった。

金祖淳は時派に属していたが、党派色を表に出さない事で士禍から逃れることが出来た。金祖淳は王の外戚として政治の補佐を行い、僻派を大量追放する。その一方で自分の本貫である「安東金氏」から人材を大量登用する「士林派」による政治は終焉を迎え金祖淳を筆頭にした「安東金氏」による政治の専横が始まると政治が乱れ 汚職・収奪 などの横行が頻繁に起こるようになり農民反乱が頻発した。1811年に起きた「洪景来の乱」は農民だけでなく、地域差別に対する反発や、没落両班、新興地主などを巻き込んだ大規模な反乱となったが、1812年に鎮圧された。

安東金氏は、わずか7歳で即位して22歳で崩御した24代:憲宗、25代:哲宗にも王后を送り込み、外戚として権勢を振るった。哲宗時代に絶頂を迎え、59年にわたって朝鮮の政治を牛耳った。

1845年:イギリスの軍艦が付近海域に侵入。

1846年:フランス海軍によるカトリック弾圧に対する抗議など、西洋列強の干渉が始まる。

安東金氏の政治は、王権の弱体化と王朝の混乱を生じさせ王族から権力奪取の動きが出てくる。

24代:憲宗の母神貞王后(趙氏)と李昰応は、王権を取り戻そうと策を巡らせていた。25代:哲宗が重病に陥ると、自らの次男の聡明さを喧伝し、哲宗が亡くなると神貞王后と謀り、自分の次男を孝明世子(翼宗)と養子縁組して、26代:高宗として即位させた。神貞王后が高宗の後見人となり、李昰応は大院君に封ぜられ、摂政の地位に就いた。このとき高宗は11歳であった。

大院君が摂政になりまず行ったのは、安東金氏を追放し、党派門閥を問わず人材を登用し汚職官僚を厳しく処罰するなどして、朝廷の風紀の乱れをただす事に力を入れた。

また税制を改革し、両班にも税を課す事とし、平民の税負担を軽くした。

大院君政権は、西洋列強に対しては強硬な鎖国・攘夷策を取った。

この極端な攘夷策が、後の混乱の遠因となった。まずカトリックへの弾圧を強化、1866年から1872年までの間に8千人あまりの信徒を殺害した(丙寅教獄)。この折のフランス人神父殺害の報復としてフランス政府は1866年:フランス軍極東艦隊の戦力全てを投入して(軍艦7隻、兵約1300名)して江華島の一部を占領し、再度の侵攻で江華城を占領する。しかし、首都漢城へ進軍中に2つの戦闘で立て続けに敗北したフランス軍は漢城への到達を諦め1ヶ月ほどで江華島からの撤退を余儀なくされる。

一方、この事件の2ヶ月前にはアメリカ商船ジェネラル・シャーマン号が通商を求めてきたが、地元の軍と衝突し商船は沈没させられてしまう。アメリカは同事件を機に朝鮮へ通商と損害賠償を求め、1871年には軍船5隻を率いて交渉に赴いた。この交渉が朝鮮側の奇襲攻撃によって拒絶されるとアメリカ軍は江華島を占領し、通商を迫った。しかし、大院君政権の強硬な開国拒絶により、アメリカ軍は1ヶ月で交渉を諦め撤退する。

大院君は攘夷政策の成功を以って、攘夷政策を強化するが、1866年王宮に入った閔妃一族や大臣達が、大院君の下野運動を始める。1873年、閔妃一派によるクーデターが成功、高宗の親政が宣言され大院君は追放される。政治体制は閔氏の勢道政治へと逆戻りした。

 

1875年:江華島周辺で、停泊中の日本軍艦を沿岸陣地の砲台から攻撃した事件が発生し、翌年1876年に日朝修好条規(江華島条約)を締結して日本側に謝罪した。それ以降、閔氏政権は、大院君の攘夷政策から一転して開国政策に切り替え、アメリカ(米朝修好通商条約)、フランス、ロシアなどとも通商条約を結んだ。一方で、開国・近代化を推し進める開化派と鎖国・攘夷を訴える斥邪派の対立は深刻になっていた。

日本から顧問を呼び、近代式の新式軍隊の編成を試みていたが、給与不払いや差別待遇などに不満を持った旧式軍隊は、大院君・斥邪派(攘夷派)の煽動も有って、1882年にクーデターに動いた。この軍乱で日本公使館が焼き討ちにされ日本人が多数殺害された。

一時的に大院君が政権を掌握するが、閔妃は清の袁世凱に頼みこれらの軍を排除、大院君は清に連行された。

事変後は日本に謝罪を行うとともに日本人保護のために日本軍の朝鮮駐留が認められた。清によって復権した閔氏政権は、清と結ぶ保守的な事大党が権力を握り、日本と結んで清からの自主独立と、近代化をめざした開化派(独立党。金玉均、朴泳孝ら)と対立して、親日開化派は孤立した。

1884年12月、開化派がクーデターを起こし、閔氏を排した新政府を樹立するものの、清軍介入により3日間で頓挫し、清国軍と朝鮮人によって、日本公使館は焼き払われ日本人数十人が殺害され、金玉均らは日本に亡命した。

事件後には開化派への処刑が徹底的に行われ、開化勢力は消滅し、清国の影響力が増大した。

1885年:イギリス軍によって巨文島が占領された。

1894年:東学党の乱(甲午農民戦争)が勃発すると親清派の閔氏勢力は清に援軍を求め、一方日本も条約と居留民保護列強の支持を盾に介入した。乱は官軍と農民の和議で終結するが、淮軍と日本軍は朝鮮に駐屯し続けた。

日本は閔氏勢力を追放し、大院君に政権を担当させて日本の意に沿った内政改革を進めさせた。元々は、攘夷派であった大院君は傀儡に過ぎず、実際の政治は金弘集が執り行っていた。なお東学党の乱に先立つ1894年3月金玉均が上海で閔氏勢力の差し向けた刺客により暗殺されている。

  駐留していた清軍と日本軍との間の軋轢から1894年「日清戦争」が勃発し、日本軍が勝利すると

下関条約によって朝鮮と清朝の冊封関係は終わり、朝鮮は清への服属関係を廃棄し、独立国となった。

 

しかしその後、朝鮮は宗主国をロシアに変える動きを見せ、閔妃はロシアに近づき、親露政策を取る事になる。これにより1895年10月に閔妃が惨殺される。自分の后が暗殺された高宗は1896年ロシア領事館に退避する。1年後、高宗は王宮に戻るが、これは国としての自主性を放棄するのに等しい行為であり、これにより王権は失墜し、日本とロシアとの勢力争いを朝鮮に持ち込む結果となった。1897年、朝鮮は「大韓帝国」と国号を改称した。

1904年になると「日露戦争」が勃発し、日本が勝利。1905年に第二次日韓協約が締結された。

 

日本は朝鮮(大韓帝国)の外交権を接収して、 内政・財政に関しても、強い影響力を得て朝鮮の保護国化を推し進めていく。

主権接収の責任者は伊藤博文であった。

 

高宗は1907年オランダに密使を送り欧米列強に日本の保護国化政策の無効化を訴え出るが、主張は国際社会に拒絶された。

この動きに対し、親日派勢力 及び、韓国統監 伊藤博文は朝鮮王:高宗に譲位を迫り、同年退位した。代わりに、最後の朝鮮王、大韓帝国2代皇帝:純宗が即位した。

【韓国併合】

1906年:日本は韓国統監府を置き、伊藤博文を初代統監とした。

日本政府内では、併合派と反対派が拮抗していた。元老でもあり政界に発言力を持っていた伊藤博文は当初は、併合には反対の姿勢をとった。

 

彼が併合に反対する理由として述べたのは、

① 現在の保護国化状態でも、実質的には併合した場合と同じく朝鮮を

  支配できる。

② 韓国進出の口実としてきた『韓国の独立富強』という建前を捨てる

  ことは却って益なしである。

③ 「財政支出」の増大を招くことからも併合は勧められず、今は国内

  の産業育成に力を注ぐべきである。

ということであった。

 

暗殺による死の間際、自分を撃ったのが朝鮮人だったことを知らされ

            「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたといわれている。

1909年10月に伊藤博文が安重根によって暗殺されると、韓日合邦を要求する声明書が朝鮮人によって出されるなど併合派が優勢となり、韓国併合および大韓帝国の滅亡は決定的なものとなった。

(韓国人が望んでいたのは対等合併であり日韓併合の実情とは異っていた)

日本政府は韓日合邦を掲げる韓国一進会や日韓併合派の李完用とともに交渉を進め、1910年8月「韓国併合ニ関スル条約」締結

大韓帝国は日本の一部となり、朝鮮半島の国家は消滅した。(韓国併合1910年)

 

韓国の皇族は、日本の皇族に準じる地位に封ぜられ処刑・追放などの厳罰処置は行われなかった。

日本に併合されて(大韓帝国が滅亡して)まもなく、朝鮮人の宗教家や学生らによる

 独立運動又は、反日蜂起が起こったが、朝鮮総督府当局の鎮圧により終息した。

イギリスの旅行作家イザベラ・バードは、『朝鮮紀行』で以下のように述べている。

 

朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。

官吏階級は、改革で「搾取」や不正利得ができなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそ小さいとはいえ、首都と同質の不正がはぴこっており、勤勉実直な階層をしいたげて、私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。

堕落しきった朝鮮の「官僚制度」の浄化に、日本は着手したのであるが、困難きわまりない。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。

 

日本が改革に着手したとき、朝鮮は階層が二つしかなかった「盗む側・盗まれる側」である。そして「盗む側」には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。「搾取」 と「着服」は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。

英国の外相はロシアの南下を阻止するため韓国が自主独立の国家として存在することを望んでおり、ジョーダン駐韓公使に対して韓国の支援を行うように指示を行った。

 

ジョーダンは韓国の立場になって、日露の干渉を排除するために、尽力していたが、日露戦争の終結時になると、マクドナルド駐日公使に対して「日清戦争後に独立した韓国の状況を見ていると韓国政治家に統治能力がないため、この 10 年の韓国は名目上の独立国に過ぎず、このまま独立国として維持されるのは困難である」と見解を示すようになる。

 マクドナルドもジョーダンに同意し、「韓国は日本に支配されることが、韓国人自身のためにもなる」という結論をイギリス本国に報告した。 バルフォア英首相は2人の見解を了承し、第二次日英同盟では日本が韓国を保護国にすることを承認。

 

 アメリカ合衆国のタフト陸軍長官は、 「韓国政府が日本の保護国となることが、東アジアの安定性に直接貢献することに同意」また彼の意見として、ルーズベルト大統領もこの点に同意するだろうと述べた。この協定は電文で確認したルーズベルト大統領によって承認され、タフト陸軍長官は、マニラから大統領承認との電文を日本の桂総理大臣に送付した。

韓国の民間政治結社一進会が上奏した 

 「韓日合邦を要求する声明書」では、

日本は「日清戦争」で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。

また「日露戦争」では日本は多くの損害を出しながらも韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。との声明を発表したが、

「韓日合邦を要求する声明書」は大日本帝国と大韓帝国が対等な立場で新たに一つの政府を作り、一つの大帝国を作るという、当時の時勢・国力比から考えても、日本側には到底受け入れられない提案であり、検討に値するものでも無かった。一進会は大韓帝国の独立防衛を堅持するよりも、日本との併合による地位の向上をより求めたとの見識がある。

現在の韓国では、日韓併合に対して、下級市民にも不満があったと流布しているが、当時の韓国では、厳しい階級制度により、国民の大部分を占める「白丁(農奴・奴隷階級)」に政治参加の権利は無く、事実上大韓帝国の皇族と一部の特権階級官僚のみが主権者である為「白丁」の政治的意思を他国から考慮できるわけも無く、また白丁の賛成・反対の統計があるわけも無い。

 

白丁(農奴・奴隷階級)が氏名を持ったり市民権を得たのは大日本帝国統治下であり「韓国併合」が遅れれば、更に奴隷制度時代が続き、悲惨な統治が行われていたものと思われる。

1909年統監府は新たに戸籍制度を朝鮮に導入し李氏朝鮮時代を通じて「人間とは見なされず」姓を持つことも許されていなかった奴婢、白丁などの賤民にも姓を名乗らせて戸籍には身分を記載することなく登録させた。

李氏朝鮮時代は戸籍に身分を記載していたが、統監府はこれを削除したのである。これにより、身分開放された賤民の子弟も学校に通えるようになった。

身分解放に反発する両班は、激しい抗議デモを繰り広げ、多くが、差別制度を守ろうとした。

 

身分にかかわらず、教育機会を与えるべきと考える日本政府の意向によって鎮圧された。

日本統治下においては、日本の内地に準じた学校教育制度が整備された。伊藤博文は、学校建設を改革の最優先課題とした。

小学校も統合直前には100校程度だったのが、1943年(昭和18年)には4271校に増加した。1911年、総督府は第一次教育令を公布した。 必修科目として「ハングル」を学ぶことになり、朝鮮人の識字率は1910年の6%から1943年には22%に上昇した。

学校教育における教授言語が日本語であったことをもって「言葉を奪った」という指摘がなされることがあるが朝鮮語が教育科目として導入されたこと、朝鮮語による文化活動が許容されていたことをもって言葉が奪われたとはいえない。また、母国語であるはずの「ハングル」は併合以前は宗主国文字の漢字と比べ劣等文字として軽蔑され、あまり普及していなかったが、併合下の学校教育によって広く市民に普及した。

三・一運動(さんいちうんどう)

1919年(大正8年)3月1日に日本統治時代の朝鮮で発生した大日本帝国からの独立運動。現在の大韓民国(韓国)では肯定的に評価され、3月1日を「三一節」として政府が国家の祝日に指定しており、同日には現職大統領が出席し演説を行う記念式典が開催される。

逆に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では失敗したブルジョア蜂起と否定的な評価で、見解に差がある。

 

第一次世界大戦末期の1918年(大正7年)1月、アメリカ合衆国大統領ウィルソンにより「十四か条の平和原則」が発表された。これを受けて、民族自決の意識が高まった留日の朝鮮人学生たちが東京神田のYMCA会館に結集し「独立宣言書」を採択したことが、伏線される。これに呼応した、朝鮮のキリスト教、仏教、天道教の 各宗教指導者ら33名が、3月3日に予定された大韓帝国初代皇帝高宗の葬儀に合わせ行動計画を定めたとされる。

 

3月1日午後、京城(現・ソウル)中心部のパゴダ公園に宗教指導者らが集い「独立宣言」を読み上げることを計画した。

実際には仁寺洞の泰和館(テファグァン)に変更されそこで宣言を朗読し万歳三唱をした参加者は、しばしば「民族代表33人」といわれる。

民族代表33人は逮捕されたものの、

本来、独立宣言を読み上げる計画だった パゴダ公園には、数千人規模の学生達が、集まり市内をデモ行進した。

道々「独立万歳」と叫ぶ、デモ行進には、次々、市民が参加し、その規模は数万人にまで膨れ上がったという。

朝鮮人のキリスト教などの宗教指導者たちの扇動により半島全体に運動は暴動として広がり、暴徒による日本人惨殺や放火などが相次いだ。総督府は、警察に加え軍隊も投入して治安維持に当たった。

 

3月から5月にかけて集計すると、デモ回数は1542回、延べ参加人数は205万人に上った。

 

【大韓民国】臨時政府樹立

三・一独立運動後、内外各地で独立政府樹立の計画が進められていた。当時の中国上海には多くの朝鮮人:独立運動家が集結していた。彼らは、臨時の議政院を設立し、「李承晩」を首班とする閣僚を選出、臨時の憲章を制定し、1919年4月、「大韓民国」臨時政府の樹立を宣言した。

 

同じころ、幾つもの独立を掲げた組織が乱立する。朝鮮半島:天道教系「大韓民間政府」「朝鮮民国臨時政府」「京城臨時政府」、シベリア:「大韓国民議会」など、

やがて上海の臨時政府に統合されていく。

1937年8月、南京において、韓国国民党(金九)・韓国独立党(洪震)・朝鮮革命党(池青天)などの韓国独立運動団体が合流して臨時政府の基盤となる韓国光復運動団体聯合会が設立された。

1919年6月、内務総長「安昌浩」が着任し、朝鮮内地との秘密連絡網の組織化や機関紙『独立新聞』の発行。各種の宣伝活動が展開された。

 

臨時政府は

「シベリア派」と「上海派」の対立

「安昌浩」等の「民力養成論」派と

「李東輝」等の「即戦即決論」派の対立。

さらに「李承晩」と「安昌浩」の対立などの、朝鮮民族の伝統といえる指導者間の対立抗争で混乱し、1923年の国民代表会議の決裂以降は急速に勢力が弱まった。1925年の「李承晩」臨時政府大統領の弾劾以降は、「金九」が指導者の地位に就く。金九は金元鳳と連名で「同志同胞諸君に送る公開通信」を発表し、中国国民政府の「蒋介石」の庇護を受けることに成功する。

朝鮮建国準備委員会

1945年(8月15日~9月7日)

 大日本帝国政府は、1945年8月14日に「ポツダム宣言」の受諾を決定した。

朝鮮総督府政務総監:遠藤柳作は日本統治終了以後の朝鮮半島が無政府状態に陥るのを恐れ、民衆保護のため朝鮮人による政府樹立を人望のあった政治活動家「呂運亨」に要請した。

玉音放送が流れた8月15日、呂はただちに朝鮮建国準備委員会(建準)を設置して、朝鮮総督府から、行政権の移譲を受ける。9月6日には、京畿女子高講堂で約1千名余が参加する中「朝鮮人民共和国」建国を宣言。発表された閣僚名簿には「金日成」と「李承晩」が含まれていた。

【朝鮮人民共和国】⁂統一朝鮮の試み(希望)

日本が敗戦降伏する過程で、総督府から朝鮮の行政権を移譲されて、1945年9月6日から短期間存在した臨時政府である。

国家の承認、政府承認をした国家や外交関係を樹立した国家もないため、「大韓民国臨時政府」と同様に国際法上の「国家」とは言えない。 

だが、朝鮮人民共和国の地方組織である「人民委員会」はソ連軍が占領した北朝鮮(北緯38度線以北)地域で存続し続け、後の北朝鮮人民委員会、更には「朝鮮民主主義人民共和国」の礎となっていった。

朝鮮半島に上陸したアメリカ軍は、臨時政府を認知せず、9月7日にアメリカ軍による「軍政」の実施を宣言した。

9月11日には、既存の朝鮮総督府の統治機構を基にアメリカ軍政庁(USAMGIK)を設置。

8月の参戦時点から、朝鮮進駐をしていたソ連軍も10月3日にソビエト民政庁の設置を宣言した。

 

10月10日USAMGIKが「朝鮮人民共和国」政府承認を正式に否定が決定打となり「朝鮮人民共和国」は瓦解した。

ソ連軍統治下の北朝鮮ではソビエト民政庁が既存の人民委員会を統治に活用し、北朝鮮人民委員会更に「朝鮮民主主義人民共和国」へと発展した。

 

一方、米軍統治下の南朝鮮では、「呂運亨」を始めとする中央人民委員会のメンバーが、一介の政党として「朝鮮人民党」を結党し、1946年2月には他の左派と「民主主義民族戦線」を結成した。しかし、1947年に「呂運亨」が右翼に暗殺されると人民共和国の流れを汲む左派勢力は瓦解し関係者の多くは、その後の朝鮮民主主義人民共和国へと合流した。

モスクワ三国外相会議で決定した信託統治を巡る朝鮮右派と左派の対立への扱いで、アメリカとソ連の意見決裂(1947年7月)

 

1947年11月:国連監視下で南北朝鮮総選挙と統一政府樹立を行うことを決定した。

1948年1月:国連は国連朝鮮委員団(UNTCOK)を朝鮮へ派遣し、総選挙実施の可能性調査を行なった。

ソ連が(UNTCOK)の入北を拒否した為、アメリカ主導の国連は2月に活動可能な南朝鮮単独での総選挙の実施を決定。

「大韓民国臨時政府」の重鎮や「北朝鮮人民委員会」による「南部単独総選挙の反対」を押し切って、5月に南部単独総選挙を実施した。

【大韓民国】

米軍軍政は「李承晩」「金九」を絶対的に支持していたわけではなく、中道派を軸に、左右勢力を取り込んだ政権を実現しようとしたが挫折。結局「李承晩」と「韓民党」の連携による政権樹立が目指された。憲法案では大統領制を採用するか、内閣責任制を採用するかが、争点となり、強大権力が理想の「李承晩」や「金九」は大統領制を主張したのに対し、議会に基盤を置いていた韓民党は内閣責任制を主張した。 制憲憲法はその折衷案として、大統領を国会議員の間接選挙により選出する大統領間接選挙制を採用した。

 

選挙によって成立した制憲議会は、7月に制憲憲法を制定「李承晩」を大韓民国の大統領に選出して独立国家としての準備を性急に進めた。制憲憲法には進歩的な条文も含まれていたが「自由」に関しては、法律での制限を広範に認める内容で、国内の多くの政治勢力の意向をくんだ妥協点が反映されたものだった。

 

1948年8月15日「李承晩」が大韓民国政府樹立を宣言、実効支配地域を北緯38度線以南の朝鮮半島のみとしたまま「大韓民国」が独立国家となった。

【朝鮮民主主義人民共和国】

1948年9月9日朝鮮半島北部は「金日成」首相の下で、「朝鮮民主主義人民共和国」:北朝鮮として独立した。

 

「大韓民国」は朝鮮半島全域の領有権を主張している、日本は「大韓民国」と国交を結んでいる為、条約の制限により北朝鮮を国家としては承認していない。(国家と認めるには、大韓民国の承認による条約改正が必要である)

ソ連の統治は各地の人民委員会を中央集権化させる形で1946年2月に北朝鮮臨時人民委員会を創設した。

ソ連から帰国した抗日パルチザン「金日成」を初代委員長に就任させた。半島北部では、北朝鮮人民委員会の執政下で社会主義化が進み1946年8月には半島北部の共産主義勢力を糾合した「北朝鮮労働党」が結成され、1947年2月には、立法機関として「北朝鮮人民会議」が創設された。

その後、北朝鮮人民委員会は独立のために最高人民会議を招集し、朝鮮民主主義人民共和国憲法を制定。

1948年9月「朝鮮民主主義人民共和国」の樹立を宣言した。

 

1948年12月:ソ連軍は朝鮮半島から撤収したが、その後も強大な影響力を残した。

【朝鮮戦争】

南北朝鮮の両国は、互いに「朝鮮における唯一の正統な政府」であると主張して対立を深め、武力による南朝鮮の解放を目指す朝鮮人民軍が1950年6月:韓国に侵攻「朝鮮戦争」の勃発に至った。当初は分断国家朝鮮両国の武力衝突であったが、突然の侵略を受けて、劣勢になった

韓国側に東西冷戦構造が作用して追い風が吹くマッカーサー元帥の下、アメリカ やイギリス連邦、タイやトルコ、フランスやベルギーなど16か国から成る「国連軍」が参戦すると、 「国連軍」の朝鮮半島北上による北朝鮮の劣勢を受けて、北朝鮮側に立った中国人民志願軍の介入により国際紛争へと拡大した。

戦争は朝鮮全土を破壊した上で1953年7月27日の休戦を迎え、38度線に軍事境界線が制定され朝鮮の分断が固定化された。

北朝鮮は金日成が1948年9月の建国当初から1994年7月の死去まで最高指導者の位置を占めた。(46年間:君臨)

1950年代から1960年代にかけて、金日成は同国の指導政党である朝鮮労働党から、自身の派閥である満州派と対立する勢力を順次粛清し、自身に権力を集中させた。

1953年:朝鮮戦争休戦直後から戦争責任を問われて南労党派が相次いで粛清され、1955年には主要人物の朴憲永が死刑となった。次いで、1956年にはソ連のスターリン批判の影響から8月金日成の追放を企てた延安派とソ連派の党員が相次いで党から姿を消した。最後に、経済政策や個人崇拝等を巡って満州派と対立した甲山派が1967年に粛清され、朝鮮労働党内から金日成・満州派と対立する勢力が一掃された。

【大韓民国の朝鮮戦争後】

1948年初代大統領就任:「李承晩」は

日本から戦争賠償金を獲得するために、「対日戦勝国(連合国の一員)」の地位認定を国際社会に要求したが、連合国からは、認定を拒否され、1951年の日本国との平和条約を締結することができなかった。

そのため、李承晩ラインの設置(1952年)竹島の占拠(1953年)などによって、一方的に武力で日本の主権を奪う政策に出た。

朝鮮戦争後は、政敵の排除や反政府運動に対する厳しい弾圧とともに、権威主義的体制を固めた。しかし、経済政策の失敗で韓国は最貧国の一員に留まっており人気は低迷した。そのため、不正な憲法改正や選挙など法を捻じ曲げてでも権力の維持を図ろうとしたが、1960年4月:学生デモを契機に政権崩壊(四月革命)李承晩はハワイへ亡命した。

李承晩 失脚後は、張勉内閣の下で政治的な自由化が急速に進展したが、 内戦後の議会の混乱によって、一向に戦後復興や工業化などが進まず、また軍内の腐敗も深刻化していた。学生を中心とした市民の北への合流を目指した「南北統一運動」が盛り上がりを見せるに至り危機感を抱いた「朴正煕」少将を始めとした軍、改革派の一部が1961年5月:クーデターを決行し軍事政権「国家再建最高会議」成立 権力を掌握した。

形式的な民政移行が行われた後も実権を握り続け、自身の政党である民主共和党による事実上の独裁体制を形成し、第5代~第9代大統領(在任:1963年 - 1979年)と大統領任期を5期に亘って務め、独裁体制を推し進めた。

反対派に対する激しい弾圧により、政治的な自由が著しく狭まったが、大規模な民主化デモの鎮圧を命じた直後に側近の中央情報部長により1979年10月「朴正煕」は暗殺された。(享年61歳)

 

朴正煕時代は強権政治の下、朝鮮戦争以来低迷していた経済の再建を重視した。世界最貧国グループに属していた韓国は自前で「資金」や「技術」を調達できず、いずれも米国や日本など海外に依存せざるを得なかった。資金面では「ベトナム戦争参戦で得た巨額のドル資金」「1965年日韓基本条約締結による1990年までの約25年に渡る円借款」 技術面は日米の技術者による指導や日米企業との技術提携を通して、技術やノウハウを吸収し鉄鋼、石油化学などの基礎産業が整備され、造船や自動車産業などの輸出産業も成長した。

これにより韓国は北朝鮮を大きく追い抜き世界最貧国の層を脱した。

一方で、朴政権は人材登用や産業投資インフラに際し、

出身地である慶尚道を優遇し全羅道に対しては冷遇をしたため、慶尚道と全羅道の地域対立、差別の問題が深刻になった。これが以後も継承され、大統領選挙を左右するような得票対立となって現れるなど、今に至るまで解決していない。

全 斗煥(ぜん とかん)

朴正煕のクーデターでは陸軍士官学校を率いて支持を表明。功績が認められ、最高会議議長秘書官に就任。ベトナム戦争に従軍、第9師団第29連隊長を務める。

1979年:国軍保安司令官に就任。朴正煕暗殺事件が起きると、暗殺犯金載圭を逮捕・処刑するなど捜査を指揮する。

 

朴正煕の強権政治が終わり、韓国政治は「ソウルの春」と呼ばれる民主化の兆しを見せたが、1979年12月:全斗煥による「粛軍クーデター」がおきた。

戒厳司令官の鄭昇和大将を逮捕して実権を掌握すると、新軍部の権力奪取の動きに対して反対運動が各地で発生したが1980年5月:非常戒厳令拡大措置が発令され 政治活動の禁止と野党政治家の一斉逮捕が行われた。同5月光州で、戒厳軍と学生のデモ隊の衝突が起こりこれをきっかけに市民が武装蜂起したが、全羅南道道庁に立てこもる市民軍は、戒厳軍により武力鎮圧された。

新軍部は「朴正煕」暗殺後に大統領を継いだ「崔圭夏」を8月辞任させ「全斗煥」が大統領に就任し、憲法を改正。1981年2月に行われた選挙により全斗煥が大統領に選出された。

1987年 大統領の直接選挙を求める  「6月民主抗争」が起こり、与党の盧泰愚大統領候補による 「6.29民主化宣言」を引き出され「大統領直接選挙」を目指した改憲が約束された。しかし12月に行われた大統領選挙では、野党側の有力候補が「金泳三」「金大中」に分裂したために、現職の後継者である「盧泰愚」が大統領に当選し軍出身者政権が続くこととなった。

 

1996年  全斗煥元大統領:粛軍クーデター・光州事件などにより逮捕・訴追され死刑判決を言い渡される(後に特赦)

2013年 「全斗煥追徴法」が成立し、一族の不正蓄財に対する強制捜査が行われ同年9月滞納が続いていた追徴金の未納分1672億ウォンについて、完済すると発表した。

 「全斗煥、盧泰愚」時代は、軍政に反対する民主化運動と弾圧の激しい時代であったが朴正熙時代から引き続いた高度な経済成長と、ソウルオリンピックの成功、中華人民共和国やソビエト連邦(1990年9月30日)との国交樹立、国際連合への南北同時加盟などにより、新興工業経済国として韓国の国際的認知度の上がった時代でもあった。

 

 1995年 盧泰愚元大統領:政治資金隠匿が発覚し拘束。一審で無期懲役の判決を受け1995年11月にソウル拘置所に収監された。控訴審では懲役15年、2628億ウォンの追徴金を言い渡された。その後、粛軍クーデター・光州事件再捜査1997年4月それらを含めた最高裁公判では懲役17年、追徴金2688億ウォンを宣告した。1997年12月に特赦された。

 

2013年9月、未納となっていた追徴金230億ウォンについて、親族が代納すると発表した。

金泳三(キムヨンサン)

1970年代から1980年代にかけて、金大中と伴に代表的な野党政治家・民主化運動家であった。1985年3月に「全斗煥」大統領により政治活動を解禁される。1987年「全斗煥」退任に伴って行われた、第13代大統領選挙にて「金泳三」と「金大中」が共に「盧泰愚」に敗北した後、1990年に「盧泰愚・金鍾泌」と手を握る。

(盧泰愚の民主正義党、金鍾泌の新民主共和党、金泳三の統一民主党が合同し巨大与党である民主自由党が誕生した)この後、民主自由党の大統領候補となり1992年大統領選挙にて大統領に当選した。

 

朴正煕政権以来、32年間続いていた「軍事政権」は消滅し、金泳三政権は「文民政権」と呼ばれることになった。金泳三は「軍部政権」の残滓を徹底して排除するため、軍内の派閥「ハナフェ(ハナ会)」を潰し、会員を退席させるなど大韓民国国軍の改革を進めた。

 

野党政治家や政治運動家などを積極的に登用し、要職に大学の教授を迎えた。さらには、高級官僚の不正の追及にも乗り出し、大法院院長や検事総長、警察庁長官などが辞任することになった。

政治と経済の癒着を嫌悪し「任期中はいかなる献金も受け取らない」と宣言、質素さをアピールした。 また、歴代大統領が議員に配った「モチ代」の制度も廃止、政治の無駄を排除した。経済面でも、不正の温床となっている仮名口座での金融取引をなくすため「金融実名制」を実施した。しかし当時20代だった次男の金賢哲(キム・ヒョンチョル)が小統領と呼ばれるほど権威を振り回し、1997年に斡旋収賄などの容疑で拘束されている。

金 大中(きん だいちゅう)

(1925年12月~2009年8月)

 

朝鮮半島の歴史(中編)はここまで

(後編)をお楽しみに!

 

 

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