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朝鮮半島の歴史(前編)

朝鮮半島の歴史と日本とのつながりを

おさらいしてみよう。

 

地図は日本に百済より仏教が伝来したとされる

ころのものである。

 

身近な異国 朝鮮半島は 日本にとって

世界への玄関と言われていた

では その歴史をみていこう

 

朝鮮半島でも 

日本の縄文文化と同じように石器で確認できる

古代の文明が存在する。

日本では

長崎県佐世保市の泉福寺洞窟という新石器時代の遺跡で世界最古と言われる豆粒文土器が発見された。日本では縄文時代 これが BC12000~BC13000年 である。

朝鮮半島では

櫛目文土器時代(クシメモンドキジダイ)BC8000~BC6000年南部が起源とされる

 

最古の櫛目文土器は遼河文明(中国北東部 遼河流域の古代文明)から発見されており当時の朝鮮半島は「ウラル系民族」が担う遼河文明圏に属していたとみられており、朝鮮民族の起源も「ウラル系民族」から(ロシア・シベリア・中国北東部)の可能性が高い。

続いて、

無文土器時代「BC1500年~300年頃」

 

日本の弥生時代に重なっており、日本の北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化要素が見られる。

 

しかし、面白いのは朝鮮半島の農耕文明の始まりもこの時代なのだが、遺跡の研究から日本に伝承されたとされる「水田稲作」文化とは違い大麦・小麦・雑穀などの畑作が中心で「水田稲作」がこの時代に伝わっていたとしても、日本への伝承ルートとは違い大陸沿いでなく黄海を越えてもたらされた可能性が大きいようである。

また、

この時代の人は、「日本語族」に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されているようである。※日本語については謎が多い詳しくはこちらをクリック

これらの説によれば、現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、朝鮮半島中部から南部に存在していた日本語族の集団に置き換わっていったとしている。またこの過程で南方へ追いやられる形となった日本語族話者の集団が移動し弥生人の祖となったというのである。日本人についてはこちらをクリック

この朝鮮語族話者の拡大、及び日本語族話者の置き換えが起きた時期については、諸説ある。満州から朝鮮半島南部に移住した日本語族話者が無文土器時代の末まで存続し、琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている。一方では朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで、朝鮮半島南部では日本語族話者が存在していたとする。

ここで朝鮮半島の神話をご紹介しよう

 

 【檀君朝鮮(だんくんちょうせん)】

開祖:檀君王倹が紀元前2333年に開国したとされる

 

韓国史は、檀君伝説から始まります。

内容を簡単に説明すると『神様が熊と虎に求婚されたので熊を選び、人間に姿を変えて結婚し生まれた子供が檀君という古朝鮮建国の祖である』という話です。

箕子朝鮮・衛氏朝鮮と合わせて古朝鮮と呼びます。 

 

朝鮮半島ではBC2333年を元年とする檀紀を定め、1961年まで公的に西暦と併用していた。

一部では現在も使用されている。

 

※ちなみに日本の神話の始祖は

紀元前660年 神武天皇が即位(日本書紀)である。

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檀君朝鮮」の記述は、『三国遺事』(1280年代成立)「魏書」の引用とされるのが、「檀君朝鮮」の文献上の初出である。

しかし、引用元とされる「魏書」にはその記述が全くないので創作とされている。

 

 中国・その他の国(もちろん日本も)の歴史書においても「檀君朝鮮」の記述は無く、「檀君神話」を民族主義歴史学の拠り所としている 韓国・北朝鮮を除いて、国際的には信頼性は認められていないが、本国では初等教育から歴史的事実として教えられている。

「檀君朝鮮」(檀君神話、檀君説話)は、

平壌に伝わる信仰と仏教と道教要素が加味されたものであり、10世紀〜11世紀頃の契丹の高麗侵攻時代に形作られ、モンゴル軍の高麗侵攻時代など「朝鮮民族」が受難を迎えた時に「民族統合」のエネルギーとなったのが、通説であり、そこから歴史的事実を追究するのは困難とされている。

 

1911年の偽書『桓檀古記』(かんだんこき)

この本は、超古代からの朝鮮半島の歴史を詳細に書き綴っているが、この本は書いたのが「桂延壽」という人であり、最初に出版されたのが1911年である点からも、近代になって作られた話であるのが分かる。また、現行版の「桓檀古記」は1949年に書かれたもので、出版が1979年であった。内容をみると、清の嘉慶5年(1800年)に命名された「長春」という地名の表記があったり、男女平等、父権など、近代になってから登場した社会用語がそのまま使用されている等、明らかに20世紀に入ってから作られた「偽書」であることが確実視されている。

 

要するに、明治にはいり日本が韓国を併合(日韓併合、明治43年)した後、「桂延壽」が日本の記紀を参考に「朝鮮の方が日本の倍は古い歴史がある」と記述し出来あがったものである。

 

1981年「大韓民国教育部長官」の安浩相が国会に提出。

「国史教科書の内容是正要求に関する請願書」

1:檀君は実在の人物

2:檀君の領土は中国北京まで存在した

3:王倹城は中国遼寧省にあった

4:漢四郡は中国北京にあった

5:百済は3世紀から7世紀にかけて、北京から上海に至る中国東岸を統治した

6:新羅の最初の領土は東部満州で、統一新羅の国境は北京にあった

7:百済が日本文化を築いた

 

その後の政府対応、

1982年『国史』から2006年『国史』までは、

古朝鮮の建国は「檀君王倹が古朝鮮を建国したとする」と『三国遺事』を引用して歴史的事実である可能性を叙述する。

2007年『国史』からは、

檀君王倹が古朝鮮を建国した」とし、歴史的事実として確定する。

また、建国年代の帳尻を合わせる為、青銅器の普及次期を紀元前2000~1500年と操作し、高等学校の国史教科書に載せている。

【箕子朝鮮(きしちょうせん)】

紀元前12世紀?~紀元前194年:中国の殷に出自を持つ、箕子が建国したとされる朝鮮の古代国家。

首都は王険城(現在の平壌)。『三国志』「魏志」東夷伝 辰韓条、『魏略』逸文などに具体的な記述があり、考古学的発見からは、箕の姓を持つ人々が殷朝から周朝にかけて中国北部に住んでおり、殷朝から周朝への時代変化とともに満州、朝鮮へと移住した可能性が指摘されている。

中国では、 古代中国史の地方民族政権の歴史として扱われており、韓国は大きく反発している。「高句麗の住民は中国の少数民族であって韓国とは無関係である」「そもそも漢江北部までが中国領土だったが、新羅や百済などの侵奪で領土を失った」「渤海建国の主導勢力は高句麗人だけでなく靺鞨族で、渤海の建国者大祚榮は渤海初期に靺鞨を正式国号に採択した」など、

内容が実証的であるとしても朝鮮半島の人々にとっては面白いものではない。

民族意識の高揚した近代以降においては、中国人起源の「箕子朝鮮」は無視され、韓国・北朝鮮ともに神話上の太白山(現・白頭山。中国と北朝鮮との国境)に降臨した天神の子の檀君が朝鮮族の始祖であり、ここから始まる「檀君朝鮮」こそが朝鮮の始まりと主張、現在の歴史教科書にも記述されている。韓国教科書の「箕子朝鮮」についての記述は、ほぼ無い。 わずかに中学『国史』「学習の手助け」において、文献上ではそのような理解があったことを記すにとどめる。

 北朝鮮では、

1959年に箕子信仰を「封建的支配階級の事大主義の産物であり、朝鮮民族への侮辱」と看做す「金日成」の指示によって平壌の「箕子陵」は破壊され、跡地は、牡丹峰青年公園となった。

1994年には「檀君陵」を建設して檀君こそ実在の古朝鮮建国の始祖であると主張した。

【衛氏朝鮮(えいしちょうせん)】

紀元前195年?~紀元前108年:その実在において論争の無い、朝鮮半島最初の国家であり、中国の「燕」に出自を持ち、亡命者の「衛 満」が今の朝鮮半島北部に建国した。

 

戦乱が起きると多くの人が移り住む。中国にとっての朝鮮半島は、そのような地であり、大小多くの避難民移住者(亡命者)コロニーが存在していたようである。

これが、統一の過程で指導者に「燕」からの亡命者「衛 満」が就き、以後3代世襲した。

中国では「燕」が「秦」に滅ぼされ、後に「前漢」へと移り、「匈奴」(モンゴル民族の国家)の支配下あった「衛氏朝鮮」は「前漢(武帝)」の侵攻に降伏し、紀元前108年に朝鮮半島は正式に「前漢(武帝)」によって征服された。

 

【漢四郡】(楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡)朝鮮では教えられない歴史。

紀元前108年~313年まで(高句麗の攻撃により遼東に撤退)

漢による朝鮮半島の統治は、群を設置した北部から中央までの直接支配と南部の間接統治を組合せて行われた。(漢滅亡後も群統治はしばらく残る)

【三韓(さんかん)】

1世紀から5世紀にかけての朝鮮半島南部に存在した民族集団とその地域。

朝鮮半島南部に居住していた人々を「韓」と言い、言語や風俗・文化が、それぞれに特徴の異なる「馬韓」「弁韓」「辰韓」の3つに分かれていたことから「三韓」といった。三韓の「韓」はモンゴル語の「汗」と同じく「王」の意味である。

「衛氏朝鮮」は「辰国」であり「辰韓」へと受け継がれる。

【馬韓】紀元前2世紀末から4世紀中に、朝鮮半島南部に存在した部族集団である。帯方郡の南、黄海に接し、東方は辰韓(後の新羅)、南方は倭(弁韓)に接していた。 後の百済と重なる場所にあった地域である。

馬韓人は定住民であり、穀物を植え、養蚕を行っていた。それぞれの馬韓諸国には首長がおり、中国皇帝に対する臣下の認識が強くあった。集落に城郭は無く、五十二カ国が存在した。その内の伯済国が百済になったとする説もある。また『三国志』魏書弁辰伝によると、馬韓人と辰韓人は言語が異なっていたという。

【辰韓】は古の辰国である。「秦韓」とも書かれ、秦からの移民ともいわれる。12カ国に分かれていた。言語は馬韓と異なり弁韓と類同し中国語とも類似していた。辰韓の12カ国は「辰王」に属していたが「辰王」は馬韓人であった。

【弁韓】12カ国に分かれていてそれぞれ王がいた。大雑把にはのちの「任那」である。しかし魏志東夷伝には、辰韓と弁韓とは居住地が混在していたとされるので、辰韓12国と弁韓12国は、国々の所在地がモザイク状に入り混じっていて境界線が引けるような状態ではなかったと解釈している。『後漢書』弁辰伝によれば辰韓とは城郭や衣服などは同じだが、言語と風俗は異なっていたとされる。

朝鮮半島:三国時代(BC100~AC700年)

【高句麗】

「漢」による直轄統治の漢四郡北朝鮮平壌辺り) 設置に抵抗した現地人勢力(高句麗人)が建国の祖と考えられる。(BC107~BC75:建国)

「漢」の滅亡後、三国時代には「魏」と結んだが、2世紀中辺りから魏軍の侵攻を受けるようになり高句麗は重なる「魏」侵攻に敗退し多大な損害を出した。

3世紀に入ると、「魏」元帝から、「晋」司馬炎に皇位が移るなど中国中央政権の混乱に乗じて、311年には、丹東を攻略して朝鮮半島の郡県を中国本国から切り離し、盛んに楽浪郡や帯方郡を攻撃した。

 

313年にはこれに耐えられなくなった楽浪郡の郡民の多くが「鮮卑」慕容氏 の下へ移住し楽浪・帯方両郡は行政機能を事実上喪失した。

同年中に、高句麗は「楽浪郡」を占領し、朝鮮半島北部の支配を確立した。

高句麗は平壌を新たな拠点として確保する一方で、多くの住人である漢人に対しては緩やかな支配で臨んだ。

337年「鮮卑」慕容氏は燕王(前燕)と称し、342年には大軍で高句麗に侵攻を開始する。高句麗は戦いに破れ、「前燕」臣下となった。

(燕王:北京周辺の諸侯国王の称号)

この頃、朝鮮半島中央部では、「馬韓」諸国が統合して「百済」を形成していた。

高句麗王は369年に「百済」攻撃に乗り出したが敗退、371年にも再び「百済」を攻撃したがこれにも敗れ、逆に平壌を攻撃した百済軍との戦いで流れ矢にあたり戦死した。

国王戦死によって「高句麗」は混乱した。

跡を継いだ小獣林王(371年~384年)と次代である故国壌王(384年~391年)の兄弟は国制の立て直しに邁進した。

小獣林王は「前燕」を滅ぼした「前秦」との関係強化に努めた。 

372年「秦王」苻堅(357年~385年)から僧順道や仏典・仏像が贈られ、375年には寺院が建立された。これが高句麗への仏教公伝である。同じ年には、教育機関として太学(大学)が設けられ、律令が制定されたという。更に、故国壌王時代には国社・宗廟、礼制の整備が行われた。

 

こうした国内政策を通じて、長年の戦火に脆弱化した国力の回復が図られた。 

広開土王(391年~412年)は、「広開土王碑」を残したことで名高い。この碑文は4世紀末から5世紀初頭における東アジア史の重要史料となっている。

 

 広開土王(広く領土を開いた王)の名が物語る功績は、395年には北西の稗麗(契丹の部族)を撃破し、翌396年には、朝鮮半島中部「百済」へ親征してその王都漢城に迫った。これによって、百済王を臣従させ、58城邑の700村を奪取した。

398年には東北の「粛慎」を攻撃して朝貢させ、誓約を破って「倭」と和通した「百済」を再度攻撃するため、平壌まで進軍した。そこで「倭」の攻撃を受けていた「新羅」が救援を求めてきたため、400年に 新羅領へ出兵しその王都を制圧していた倭軍を駆逐した。

更に敗走する倭軍を追って、朝鮮半島南端部にあたる「任那・加羅」まで進み倭人と共にいた安羅兵も討ったという、404年には「倭」が海路で帯方地方に侵入したがこれも撃退した。 407年にも「百済」へ侵攻して、6城を奪い、続いて410年には「東扶余」にも侵攻して王都に迫った。

 

征服活動についての記録は主に「広開土王碑文」の情報に基づいている。

この碑文の解釈を巡っては諸説入り乱れており、史実性を巡って議論があるが、重要性の高い同時代史料として現代では高く評価される傾向にある。また碑文の記録にはないが「前秦」の崩壊に乗じて、慕容氏が復興した「後燕」とも戦い402年には遼東郡を奪って支配権を確立した。 その後、高句麗人で慕容氏の養子となっていた慕容雲が「後燕」の将軍であった漢人馮跋に擁立されると、広開土王は即座に使者を送り、慕容雲を宗族待遇とした。更に同じく慕容氏の政権である「南燕」にも遣使し、これらを通じて、高句麗の西部国境の安定が達成された。

広開土王によって拡大された領土を引き継ぎ、高句麗の全盛期を現出したのが、子の長寿王(413年?~491年)であり79年間、長期に渡って在位した。

 

即位直後の413年「東晋」に初めて朝貢した。

この頃「北魏」が中原を支配下に収める。敗者「北燕」王が高句麗に亡命。当初、長寿王は王を保護したが、「北魏」から圧力に折れ、彼を殺害した。

その後も、南北に分裂した 中国の両朝に遣使を行い、特に、国境を接する「北魏」との関係構築に腐心した。南北両王朝とも高句麗を認め424年「宋」435年「北魏」それぞれ冊封を受けた。高句麗に授けられた将軍号官位は当時の東アジア諸国の中でも最上位級となった。

 

長寿王は、朝鮮半島方面の経営と、勢力拡大に本格的に乗り出し、427年に南方の拠点であった平壌へ遷都した。南進路線をはっきりさせた高句麗は、対北魏関係の安定とともに南方への勢力拡大を続け新羅・百済に攻撃を加えた。455年以降は繰り返し百済を攻撃した。高句麗の圧迫に耐えかねた百済は北魏に救援要請を行ったが、高句麗の北魏との親善策も功を奏し北魏が介入することはなかった。475年、長寿王は百済の首都漢城を襲ってこれを奪う事に成功した。 そして逃走を試みた百済王も捕らえて殺害し、事実上百済を滅亡させた。(その後、新羅に派遣されていた文周王が南方の熊津で百済を再興した。)高句麗軍は更に南下し、朝鮮半島の大部分を支配するに至った。

【百済】前期:漢城時代」

馬韓諸国のなかの伯済国を母体として、少なくとも4世紀前半頃までには漢城(現在のソウル)を中心として成立していたと見られる。『三国史記』(1143年成立)の記載に基づくと「百済」の建国は紀元前18年となり、韓国の学界では1976年にこれを史実と定義して以来、現在でも有効な説である。ただし、中央集権的な国家としての出現は4世紀半ば以後のことと見られている。

 

漢城(ソウル)を都とした「百済」の初期の歴史を記す史料は主として『三国史記』である。

第12代:契王以前の記録は神話的な説話や後世の創作が疑われる記事が中心であり、そこから歴史上の出来事を復元するのは困難である。

四世紀後半の百済王:近肖古(第13代)の治世下、371年に高句麗の平壌城を陥落させて、高句麗王を戦死させる戦果をあげた。

 

この頃から「百済」は外国史料に登場しはじめる。平壌占領の翌年には「百済」の使者が初めて「東晋」に入朝し、百済王:近肖古は「鎮東将軍領楽浪太守」の称号を得る。ほぼ同時期に、「倭国」との通交も始まり、七支刀(ななつさやのたち)と呼ばれる儀礼用の剣が贈られたことが『日本書紀』に見える。この刀は現存しており、銘文分析から369年に作成されたと考えられている。『三国史記』によれば、近肖古王(346~375)の治世に博士:高興が「百済」に文字を伝え、初めて記録がされるようになったという。

 

時代が進むと、周辺諸国との関係を通じ「百済」には多様な集団が関わるようになった。後の時代には「倭国」との連携強化と関わって「百済」の権力層に倭国系の姓氏を帯びる集団(倭系百済官僚)が登場し、また中国系人士をはじめとする外来の多様な集団を権力内部に取り込まれ、これらを通じて「百済」は発展を遂げた。第15代枕流王の治世には、  南朝を経由して、西域の僧侶:摩羅難陀が「百済」に渡り、王から丁重な歓待を受けた。翌年には彼のために漢城(漢山)に仏寺が建設され、これが公式には最初の「仏教伝来」(384年)とされている。  

漢城時代の「百済」は北部側で勢力を拡大する「高句麗」と武力衝突を繰り返した。

「高句麗」の圧力が増大する中「倭国」からの支援が求められ、397年には太子:腆支が「倭国」へ人質として出され引き換えに「倭国」の軍事的な介入が行われたと見られる。「広開土王碑文」に詳しく記され、それによれば、391年以来「倭」が海を渡り「百済・新羅」を臣民としたが、  「高句麗」は396年に「百済」を破り服属させた。

 399年に百済王が誓約を破り「倭国」と和通したため、翌400年には「新羅」へ出兵して倭軍を駆逐し、404年には帯方に侵入した「倭」を撃退、407年にも「百済」へ出兵して、6城を奪ったという。

この碑文の解釈を巡っては諸説入り乱れており、史実性を巡って議論があるが「百済」と「高句麗」が「倭国」も交えて長期に渡り戦いを続けていたこと自体は間違いがない。

【百済】中期:熊津時代 へ続く

【任那】(日本府)

紀元前4世紀頃から朝鮮半島南部地域一帯には、日本列島から多くの倭人が移り住んでいたようである。(遺跡から、弥生土器などが大量に出土)三韓の時代には、後の任那につながる日本府(小国)が幾つも存在したようであるが、朝鮮半島では、当然認められていない。矛盾する史跡として「倭・百済・高句麗」の戦闘の軌跡を確認できる「広開土王碑文」や中国の史記、歴史書など 「日本書紀」(720年成立) 崇神天皇条から天武天皇条にかけての「任那」に関わる詳細な記述内容を確認する限り、朝鮮半島南部に日本国の行政府が置かれていた事は、ほぼ間違いないと思われる。

つづき

【百済】中期:熊津時代

高句麗の来襲により、王都漢城を失った475年、百済王子:文周は救援を求めて新羅に派遣されていた。新羅の援軍を連れて帰還したが既に漢城は陥落していた。

その後、文周王として即位「百済」を再興した。都を南方の熊津に遷し、高句麗から逃れた中央の貴族たちを受け入れ(王族と共に中央の主要官職を抑えていた解氏なども加わっていた)文周王は弟:昆支を内臣佐平、解仇を兵官佐平にあてたが、昆支が死ぬと、解仇が実権を握り478年に解仇によって暗殺された。太子:三斤が即位したが、わずかに13歳であり、軍事的、政治的な権限は完全に解仇の手に渡った。翌年には、解仇が反乱を起こした。 三斤王は権力から遠ざけられていた別の貴族:真氏を登用してこれを討伐した。

この反乱で動員された「百済」の兵力は、『三国史記』の記述によるなら、2,500名あまりであり、この兵力の少なさは「百済」がいかに弱体化したかを物語っている。 

 479年、東城王が即位すると「百済」は復興が進む。伝統的な中央氏族に代わり、新たな氏族が高位官職に進出し、王権が強化され王族や貴族への王の統制力が向上した。 東城王は「新羅」と結んで「高句麗」の軍事的圧迫に対抗する一方で小国が分立していた南部「伽耶」への勢力拡大を図った。権力闘争で東城王が暗殺された後には、武寧王が即位する。(即位:501年)

「武寧王陵」(1971年発見)多様な副葬品が出土し、有名な百済王である。

熊津を中心とする「百済」を更に発展させるため武寧王は「南朝」および「倭国」との関係を深め領内の支配強化を目指した。

 

『日本書紀』には、この頃に「倭」から「百済」へ「任那」四県を割譲したという記録があり、これは「百済」の政策と関係するものと考えられている。

 

この頃の「倭国」の「任那」四県に及ぼしていた支配力については懐疑的な見方が強い。「百済」は513年には「伽耶」の有力国:伴跛に干渉し、朝鮮半島南西部での支配を確立すると、東進して「伽耶」の中枢に迫った。

武寧王は対外活動も活発に行っており「南朝」の「梁」には、新羅使を同伴して入朝し「新羅」や「伽耶」諸国を付庸していることを語り「倭国」へは南方進出の了解や軍事的支援と引き換えに五経博士を派遣し始めた。以後、「倭国」への軍事支援要請と技術者の派遣は「百済」の継続的な対倭政策となっていく。

【百済】後期:泗沘時代

武寧王の跡を継いだ聖王は回復した国力を背景に538年都を熊津から泗沘に遷した。

 

泗沘は熊津と同じく錦江沿いにある都市であるが、防御に適した熊津に対し、泗沘は錦江下流域の丘陵地帯であり、水陸の交通の要衝であった。

 

「伽耶」では西側から勢力を広げていた「百済」と、東方から拡張していた「新羅」との間で軋轢が生まれた。更に「伽耶」を一種の属国と見做す「倭国」 生き残りを図る「伽耶」諸国の間で複雑な外交が繰り広げられた。「伽耶」の中心的国家であった「金官国」は524年に始まった「新羅」侵攻に対し「倭国」へ救援要請を行った。これを受けた「倭国」は毛野臣を派遣したが、527年に九州で発生した「磐井の乱」により渡海できず、到着は529年になった。「伽耶」の一国である「安羅」に到着した毛野臣は調停を目指して「百済・新羅」の双方に参会を求めたが、共々倭国調停に期待を置いておらず、毛野臣は手段を講ぜないまま、532年に「金官国」滅亡。  一方「安羅」は「倭国」に頼るのを諦め、毛野臣を排除するとともに「百済」に援軍を要請し、531年には百済軍が「安羅」に駐屯することとなった。

550年頃より「高句麗」と全面的な衝突に入り「百済」の情勢は極めて悪化した。 この時期に「倭国」に兵糧、武具、軍兵の支援を求める使者が矢継ぎ早に派遣されたことが『日本書紀』に見える。

 

551年には一時的にかつての都、漢城を「高句麗」から奪回することに成功。しかし翌552年には漢城放棄に追い込まれ変わってに「新羅」が漁夫の利を得る形で漢城を占領した。 

「新羅」に対抗するため、百済王:聖王は「倭国」との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送る一方で、見返りとしてより一層の軍事支援を求めた。「大伽耶」「倭国」からの援軍を得て、554年「新羅」を攻撃したが伏兵にあって戦死した。

 

新たに威徳王が即位したが、国王戦死の失態は「百済」に大きな打撃を与え混乱を招き、562年までに「伽耶」地方の大半が「新羅」の手に落ちた。

百済王:威徳は弟:恵を倭国に派遣し、援軍の出兵を働きかけたが「倭国」(蘇我稲目)は親百済姿勢は維持したものの、国内を重視し、援軍派兵には同意しなかった。

 

とは言え、「新羅」の強大化は「倭国」にとっても好ましいものとは映らなかったため「伽耶」地方の制圧を巡り「倭」と「新羅」の関係は悪化し小競り合いが発生していた。「百済」も「伽耶」地方の奪回をいぜんとして目指したため、「倭国」との伝統的な協力関係は維持された。しかし「新羅」が「任那の調(みまなのみつき)」(属国から宗主国へ貢物)を「倭国」に送付するようになると、「倭国」は当面これに満足し「百済」が577年に「新羅」に侵攻した際には軍事援助を行われなかった。

百済王:威徳は「伽耶」の奪回を諦め、579年頃から「新羅」への武力行動を抑制した。

589年に「隋」が中国を統一し、長く続いた南北朝時代が終わると、朝鮮半島情勢も大きな影響を受けた。

「百済」は、いち早く使者を建てて「隋」との関係構築に努め598年の「隋」の「高句麗」遠征に参加した。

相変わらず「百済・新羅・高句麗」の小競り合いは続き「倭」が支援に加わる構図が続いた。

北方では「高句麗」が「突厥」との同盟を意図したことから、関係が悪化していた「隋」が611年から3回に渡り「高句麗」への遠征を行ったがこれを制圧できず、度重なる「高句麗」遠征と、国内での大規模土木事業などへの民衆不満から618年には「隋」が倒れ「唐」にとって代わられた。

「百済」は624年「高句麗・新羅」と同じく唐に入朝し、冊封を受けている。

 

百済滅亡642年は、最終的に676年の「新羅」による、朝鮮半島統一に帰着する 東アジアの大変動が始まる画期となった。

 

642年前年に即位した「百済」義慈王が自ら兵を率いて「新羅」に侵攻し、40余りの城を陥落させて「新羅」に大打撃を与える事に成功した。「百済」は伽耶の奪取を達成することができた。また、後に新羅王となる金春秋(武烈王)の多くの親族を殺害し、精神的にも「新羅」に大きな打撃を与えた。更に、翌643年には「高句麗」と和睦が成立し「新羅」への漢城奪回を目指した百済王:義慈は王権を強化した。同642年には「高句麗」で淵蓋蘇文がクーデターにより実権を握り、「新羅」でも、善徳女王を中心 金春秋、金庾信の3名の結束による権力体制が成立した。倭国では舒明天皇が死に皇極天皇が即位するとともに蘇我蝦夷・入鹿親子が実権を握り「陵(みささぎ)」と称する墓の建設を開始している。

こうして、642年頃を境に各国で権力の集中が進んでいたのだ。

「百済」は「高句麗」と協同して「新羅」への侵攻を続けた。善徳女王その死後に、新羅王となった金春秋(武烈王)は「唐」への援軍要請を繰り返した。

これを受けた「唐」は、高句麗同盟国のな「百済」を倒し「高句麗」の背後を抑える意図もあり、遂に660年、水陸合わせ13万の大軍を「百済」へ向けて差し向けた。 呼応した「新羅」も出兵した。

 

660年3月「唐」の蘇定方将軍の軍が、山東半島から海を渡って「百済」に上陸し、侵攻を開始した。「百済」側は対応を巡って方針がまとまらず、有効な戦略を打ち立てることはできなかった。個別の戦闘では奮闘した例もあったものの、7月には王都泗沘が占領され、義慈王は熊津に逃れたが、間もなく降伏した。こうして「百済」は滅亡した。

 

その後、「百済」復興を目指した遺臣たちが反乱を起こし「倭国」の支援を受けたが、

663年の「白村江の戦い」の結果完全に制圧された。

 

【高句麗】:後期 5世紀以降

広開土王、長寿王、次は孫が王位を継承した。この頃までが「高句麗」の全盛期であり、5世紀に入ると国力を整えた「新羅」「百済」の勢力に徐々に前線を押し戻され551年には、漢城(ソウル近郊)を明け渡す事になった。(新羅が占有した)

 

事態に対処する為「高句麗」は平壌に遷都を行い(552年~都の完成まで43年かかった)朝鮮半島における不退転の決意を示した。

581年に「隋」の文帝が即位するとすぐに冊封を受けた。しかし、589年に「隋」が中国統一を果たすと東アジアの国際情勢は根本的な変化を迎えた。

 

「隋」による中国統一に「高句麗・百済」は迅速に反応し、 あいついで「隋」への遣使を行っている。594年には「新羅」も朝貢して冊封を受け、東アジア諸国が「隋」を中心とした一元的な国際秩序の中に組み込まれて行くこととなった。

 

国境を接し、北朝の脅威に対応してきた「高句麗」にとって深刻な事態であった。この頃、「高句麗」は「靺鞨」を攻撃して支配下においていたが、西側の「粟末靺鞨」のみは「高句麗」の支配に服さず、首長:突地稽らは「隋」を頼んで遼西地方に移動し「隋」領内から「高句麗」への反撃を行った。

更に「突厥」に押され「高句麗」領内に寄居していた契丹人も「高句麗」から離反して「隋」へ服属する動きを見せた。「高句麗王:平原」は契丹の離反を阻止するとともに、「隋」領内の突地稽ら「粟末靺鞨」との戦いを続け、「隋」の脅威に対応するために軍の増強と食料の備蓄を行った。

「隋」の文帝は「高句麗」の行動について、状況を確認するための使節を派遣したが「高句麗」は厳重な警戒の下で使節に応対した。

 

文帝は一連の行動と使者の取り扱いに、強い不快感を示し、高句麗平原王を問罪する璽書を送ったが王死亡ために沙汰止みとなった。

 

その後、文帝時代に「隋」領内での侵犯を理由に水陸30万と号する遠征軍を派遣した。高句麗王の謝罪などで一旦終息するが、

2代皇帝:煬帝の時代には、大軍が組織されて3度にわたり、討伐遠征が行われた。「高句麗」はこれに耐え抜き、和議で切り抜けた。

 

この遠征は「隋」の内政を著しく悪化させ618年「唐」にとって代わられる事になる。

 

「高句麗」は「唐」成立の翌年には遣使し、

621年には「百済・新羅」と揃って朝貢を行った。「唐:高祖」はなお国内に割拠する群雄との戦いに、専念するために「高句麗」との関係の修復に努めた。628年太宗の下で国内の統一を完了すると「唐」は対外強硬策に転じ「高句麗」への圧力も増した。

 

630年、「東突厥」を滅ぼした「唐」は

631年、隋による高句麗遠征の京観(敵の屍を積み上げて土を被せた戦勝記念碑)を破壊して遺骨を返還するよう要求した。

「唐」の強硬姿勢を恐れた「高句麗」は国境沿いに、千里余りに渡る長城を築いて「唐」からの侵攻に備えた。次々と隣国が滅ぼされ、高句麗国内では危機感が高まった。

642年、当時長城の築城監督を任されていた大対盧の淵蓋蘇文(イリ・カスミ)は「唐」の侵攻に備えた権力の集中と国家体制の再編を目論んでクーデターに打って出た。

当時の栄留王(在位:618年-642年)と180人余りの臣下を殺害し、王弟の子である宝蔵王(在位:642年-668年)を王座に就けた。自らは最高位の官位である大対盧を退き、第二等の莫離支に身を置いて実権を握った。

645年、「高句麗・百済」によって唐への入朝路が、塞がれているという「新羅」の訴えや「新羅」との和解を求める「唐」の要求を「高句麗」が拒絶したこと「唐」が承認していた王である栄留王が殺害されたことなどを直接的な理由として「唐」太宗は10万余りとされる軍勢を率いて高句麗へ親征した。 高句麗は10城を破られ、領土の一部を唐に奪われたものの、激戦の末に唐軍の撃退に成功した。

 

 「高句麗」は647年、648年にも「唐」の攻撃を受け、領土の一部を奪われたが、一連の攻撃をしのぎ切った。その後、逆に周囲諸国を攻撃して、勢力の拡大を図り654年に契丹を攻撃し、655年には「百済」と共に「新羅」に出兵した。契丹攻撃には失敗したものの「新羅」からは33城を奪取する。

「新羅」はこの事態を打開するため、「唐」に「百済」の討伐を求めた。「唐」は658年から659年にかけて「高句麗」を攻撃したが失敗しており、同盟国「百済」を先に滅ぼし「高句麗」の背後を抑えることを企図した。「唐」は660年に水陸13万の軍勢をもって、海路「百済」へ侵攻した。 これに対応することができず660年「百済」は滅亡した。

「高句麗」を包囲した「唐」は「新羅」の兵力も加えて、662年には「高句麗」への攻撃が開始された。首都平壌は半年にわたって包囲されたが「高句麗」はこの攻撃も防ぎ切った。

 

しかし、666年に高句麗将軍;淵蓋蘇文が死亡すると、その長子男生と、弟の男建・男産が対立して分裂状態となり、 首都を追われた男生は国内城に立てこもって「唐」に救援を求めた。

これを好機とした「唐」高宗はただちに出兵。「唐」は667年、西の拠点を攻略し、合流した男生の先導で遼東半島も攻略、668年には「新羅」と共に、再び平壌を包囲した。男生の調略もあり、1ヶ月にわたる包囲ののち男産と宝蔵王は降伏した。男建は抵抗を続けたが、最後は捕らえられた。こうして668年高句麗は滅亡した。

【新羅】(前57年 ~ 935年)

・高句麗・百済と並立 三国時代(前57年~668年)

・朝鮮半島唯一の国家だった時代(668年~900年)

・統一新羅から分裂した時代(900年~935年)

に分けられる。 建国時代を紹介と

三国時代を飛ばして半島統一以降をご紹介します。

 

【建国】

3世紀ごろ、朝鮮半島南東部には辰韓十二国があり、その中に斯蘆国があった。

新羅は、この斯蘆国が発展して基盤となって、周辺の小国を併せて発展していき、国家の態をなしたものと見られている。

 

4世紀から5世紀にかけての新羅と百済は、高句麗に比べて、国力も領土も弱小であった。

また、両国にとっては、北部九州と中国・四国・近畿地方、更には、朝鮮半島南部までもを領有していた 大和朝廷は大国であり、脅威であった。

辰韓は秦韓とも呼ばれ、秦(中国王朝)の亡命者の集団と言われていた。故に新羅は中国亡命者によって樹立された国家であるとの主張がある。(中国社会科学院)

 

また、新羅建国の神話・伝説 にはやたらと倭人(倭国)とのつながりが出てくる。歴史資料においても中国政権の属国時代と倭国の属国時代が垣間見える。高句麗・百済とは違った感じを受ける歴史観である。

 

『三国史記』新羅本紀によれば、朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系があること、そしてそれぞれに始祖説話があることが伺える。新羅はこの3王統により何度か王朝交代が起きており、それぞれの王統が王位を主にしめていた時代を朴氏新羅(初代赫居世居西干〜)・昔氏新羅(57年・第4代脱解尼師今〜)・金氏新羅(356年・第17代奈勿尼師今〜)と呼ぶ。

瓠公(ここう、生没年不詳)

新羅の建国時(紀元前後)に諸王に仕えた重臣。また金氏王統の始祖となる金閼智を発見する。もとは倭人とされる。

 

新羅の3王統の始祖の全てに関わる、新羅の建国時代の重要人物である。瓠(ひさご)*ひようたん を腰に下げて海を渡ってきたことからその名がついたと『三国史記』は伝えている。初代新羅王の赫居世居西干の朴姓も同じ瓠から取られているため、同一人物を指しているのではないかという説がある。

「初代朴氏始祖」では、

「辰韓の弱小国」なのだから「貢物をよこせ~」という

馬韓王の無礼を責めて怒らせたが殺されず帰国した。とあり

 

「4代昔氏始祖」の時代に「金氏始祖」の血統を発見して 世継ぎとして育成を始めた。とある。

 

この人どうやら日本人で、それも皇族ではないでしょうか?日本書紀の記述も気になる!

7世紀 新羅の金春秋(武烈王)は唐の冊封を受け、新羅国王となって百済と高句麗を滅ぼし半島を統一する道を選んだ。

 

これ以後、朝鮮半島の国家は中国皇帝の冊封下に入る。武烈王の子:文武王の時、唐・新羅戦争において唐に多大な損害を与えて圧勝、671年には、唐を半島から撤退させたことで、唐の高宗は文武王の冊封を取り消した。

675年2月、文武王が謝罪使を派遣して冊封を取り戻すが、唐はその後も朝鮮半島への介入戦争が断続的に行われた。

 

675年9月に新羅軍は、泉城で唐の軍を破り、買肖城戦闘でも破った。さらに、676年11月新羅の水軍が錦江河口の伎伐浦海戦で水軍を破る。唐は、朝鮮半島から完全に撤退した。

(新羅による朝鮮半島統一)

 

696年、唐と渤海との間に戦端が開かれると渤海により唐と新羅は国境線を接しなくなった。732年、渤海に山東を占領された唐は新羅に南からの渤海攻撃を要請、新羅は唐の要請を受けて渤海を攻撃、唐と新羅の関係は和解へと向かう。唐が渤海と和解すると新羅は渤海攻撃の功績が認められ、735年に唐から浿江以南の地を冊封された。

 

以降は、飢饉の度に日本海を新羅の海賊や盗人が往来するような、対外的には不毛な時代がつづき、新羅国内は政治腐敗・衰退が進み8世紀の終わりの分裂を迎える。

 

【新羅分裂】へ続く!

 

渤海(日本語: ぼっかい)698年~ 926年)現中国東北部から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて、かつて存在した国家。

 

690年に即位した則天武后(唐女帝)の時期に収奪が激しくなり唐に強制移住させられていた契丹が暴動を起こした。この混乱に乗じて、高句麗残党と共に唐の支配下から脱出し、大祚栄の指導の下、高句麗の故地へ進出、都城を築いて震国を建てた。この地は後に「旧国」と呼ばれる。大祚栄は唐(武周)の討伐を凌ぎながら勢力を拡大し、唐で712年に玄宗皇帝が即位すると、713年に唐に入朝することにより、崔忻が冊封使として派遣され、大祚栄が「渤海郡王」に冊封された。

2代王:大武芸は 唐と対立して一時、山東半島:煙台を占領したこともあった。

唐・新羅・黒水靺鞨と対抗するために日本へ使者を送っている。(727年)渤海国の毛皮や人参と日本の綾絹などが交易された。3代王:大欽茂が唐との対立政策を改め文治政治へと転換する。唐へ恭順を示すと共に、文化の流入を積極的に推進した。 政策を評価した唐は「渤海国王」と高い地位を冊封している。大欽茂が没すると治世が乱れた。数代経過し大嵩璘王の治世では、唐への恭順と日本との通好という外交に力を注ぎ、渤海の安定と発展の方向性を示したが、治世十余年で没してしまう。大嵩璘没後も短命な王が続いた。文治政治の平和は継続したが、国勢の改善を見ることができなかった。

渤海が統治する各部族が独立する傾向が高まり、それが渤海政権の弱体化を招来した。

 

その後、唐の周辺諸国に対する支配体制の弱体化を契機に勢力を盛り返した渤海は独自に唐に入朝することはなくなり、「海東の盛国」と称されるようになった。

 

大彝震の時代になると、軍事拡張政策から文治政治への転換が見られた。唐との関係強化留学生を大量に唐に送り、唐からの文物導入を図った。渤海の安定は、続く大虔晃、大玄錫の代まで保持されていた。

10世紀になると渤海の宗主国である唐が衰退し、更に農民反乱により崩壊状態となった。その結果、中国の史書から渤海の記録が見出されなくなる。大玄錫に続いて即位した大瑋瑎、続く大諲譔の時代になると権力抗争で渤海の政治は不安定化するようになった。唐が滅びた後、西に建国された契丹国(のちの遼)の侵攻を受け渤海は926年に滅亡する。

契丹は故地に東丹国を設置して支配した。東丹国の縮小に伴い、渤海再興が試みられるが、契丹(遼)の支配強化によって、 すべて失敗に終わり、遼西や遼東へ移住させられ、または残留し一部は高麗へ亡命し一部は北方へ戻った。黒水靺鞨(女真)が建てた金王朝(1115年~1234年)では残った渤海遺民は厚遇され官職につく者や王家に嫁ぐ者もいた。金を滅ぼした元王朝では、華北の渤海人は「漢人」として支配を受ける。その後、女真は満洲として再び台頭するが、渤海の名称は東アジア史から姿を消した。

【新羅分裂】

有力な勢力となった農民出身の甄萱が892年に南西部に「後百済」を、 新羅王族出身の弓裔が901年に北部に「後高句麗」を建て朝鮮半島は「後三国時代」に入る。

 

新羅王:孝恭は、対抗する事ができず、酒色におぼれ、新羅の領土は日増しに削られて行き、ついには、滅亡の道をたどることになる。

後高句麗の武将であった王建は、後百済との戦争で何度も勝利し、立派な人格で群臣たちの信望が厚かった。しかし王:弓裔には嫌われ、命を狙われそうなこともあった。

弓裔は宮殿を再建したが、民衆の不満が高まったので、反対派を粛清した。

王建は弓裔の暴政に対して政変を起こして弓裔を追放し、918年に高麗を興した。

【高麗】

新羅:景明王は920年、王建と誼を通じて後百済に対抗したが924年に亡くなった。次の景哀王は927年に宴会の最中、後百済王:甄萱に奇襲を受け殺された。次の新羅王:敬順は後百済王:甄萱により王位に就けられた。

高麗と後百済の戦争が続いたが、935年、後百済王:甄萱が四男に王位を継がせようとすると長男の甄神剣(後百済第2代王)が反乱を起こし、甄萱を監禁し王位を奪った。

甄萱は935年6月、逃げ出して高麗に亡命。王建は甄萱を国賓として迎えた。

同935年11月、新羅王:敬順が君臣を挙げて高麗に帰順した。

これにより 新羅は滅亡。 高麗は翌年の936年に後百済を滅亡させる。

こうして朝鮮半島は高麗によって統一された。

926年に遼:大契丹国(916年成立)が渤海を滅ぼして、高麗と北方で国境を接した。一方、中国大陸の戦乱が宋(960年建国)によって統一された。 宋は漢民族を統一したが、北方の周辺異民族を制する力はなく、契丹は、急速に高麗との国境まで版図を広げ、993年から大規模な侵入を行った。高麗はこれに屈し、契丹の属国となる事を誓って赦され、994年から連年朝貢した。

 

1009年に高麗で王が弑逆される政変が起きると、1010年、契丹は不義を正すという名目で介入し、北部諸州を征服した後、首都開城へ迫った。高麗朝廷は開城を放棄して羅州へ立て篭もるも、1011年1月に和を乞うて降伏、契丹軍は開城を焼き払い撤退した。

 

高麗が再び盟約に違反した為、契丹は1013年から1015年まで継続して侵入し、高麗軍は大きな損失を被っている。1016年、高麗が再び契丹に背くと、1018年、10万の契丹軍が高麗へ攻め込むが、高麗軍20万は、契丹軍の分隊を迎え撃ち撃退した。侵攻は1019年まで続いたが、高麗は最終的にこれを撃退した。

 契丹軍の侵攻は、高麗が請願によって、女真族の土地である江東6州の権利を、下賜されていながら、度々、背いた故である。遼(大契丹国):聖宗は、敗戦を受けて、本格的な高麗征伐を準備していたが、高麗からの「属国となり毎年朝貢を怠らない」旨の謝罪を受け容れ1020年降伏による和睦を許した。1022年以降、高麗は契丹の年号を用いて、朝貢の義務を果たし、 契丹が江東6州領有を許した事で、高麗は女真族の土地を占領した。 その後、北東地域では女真との戦いが続いた。女真人が居住していた江東6州への侵略に際して女真族の抵抗に遭った為、1033年~1044年にかけて北部に半島を横断する長城を築いて報復に備えた。1037年に女真水軍が長城の及ばない地域を侵したが、この後は安定を取り戻した。

この後、女真の台頭は著しく、1115年に金を建て、1125年に高麗の宗主国:遼を滅ぼす。その為、高麗は金へ服属し、翌1126年に朝貢した。金は中華帝国となるべく、宋への介入に集中したため、高麗は属国でありながらもそれほど政治介入を受けずに済んだ。

国内はおおむね安定し、1145年には現存最古の朝鮮半島史書である三国史記が完成した。

しばらく対外的な脅威が無くなると内政は乱れ、権力闘争による反乱がおき、武臣政権が長く続いた。

北方ではチンギス・ハン率いるモンゴル帝国(蒙古)が台頭し高麗の宗主国:金を圧迫していた。

(1218年)にモンゴルに離叛した契丹の一派が高麗領内に侵入した時、チンギスはこれを追討し、高麗側も兵力を出してこの討伐を助勢した。これにより高麗はモンゴル側と接触してその朝貢国となった。

 

1224年に派遣されたモンゴル使臣が高麗領内で殺害される事件が起こり、国交は断絶した。

1231年から、使者の殺害を詰問し降伏・臣従を促す国書がモンゴル側から届き、モンゴル軍の侵入が始まる。武臣政権:崔氏は高麗国王を奉じ1232年から徹底抗戦を行ったため、高麗国土と国民はモンゴル軍に蹂躙され、荒廃した。1239年にモンゴルは入朝を命じたが高麗側は応じなかった。そこで1247年に再びモンゴル軍が侵入した。この年からモンゴルは継続して侵攻し、高麗は徹底的に抗戦するものの、1258年に北部を占領され双城総管府が置かれた。結局、翌1259年に崔氏政権は打倒され、高麗はモンゴル帝国に降伏、太子(王子)を人質としてモンゴル宮廷に差し出し、モンゴル帝国に征服されるのである。(30年近くに及ぶ高麗の抵抗は終わり、モンゴルの行中書省の征東等処行中書省に組み込まれる)

モンゴル帝国:【高麗】占領

モンゴル帝国は、これまでの契丹や女真と異なり、直接的な内政干渉をした。

多くのモンゴル軍人が駐留し、反発感情が生まれた。1270年には東寧府を置かれた。同年、モンゴル支配に反抗する高麗の人々が三別抄の反乱を起こした。

反乱者は徹底抗戦し、隣国日本の鎌倉幕府に救援を求め、共同してモンゴル軍を撃退するよう要請したが1273年に鎮圧された。乱の鎮圧と共に、クビライは日本を服属させようと試みたが交渉は失敗し、1274年と1281年に二度の日本侵攻(元寇)を行った。

前線基地となった高麗は、兵站の補給と軍艦の建造を命令され、負担を多大なものだった。

一方、『高麗史』には忠烈王がモンゴルに日本侵攻を働きかけたとの記述がある。忠烈王が自身の政治基盤強化のため、モンゴル軍を半島に留めさせ、その武力を後ろ盾とする目的であったと見られる。

 

忠烈王(在位1274年 - 1308年)はクビライに公主の降嫁を懇願して許され、クビライの娘(クトゥルク=ケルミシュ)と結婚してハーンの娘婿(駙馬、グレゲン)となった。

13世紀後半から14世紀半ばにかけて、元に支配された高麗の歴代国王(第24代元宗~第31代恭愍王/武宗)はモンゴル帝室の公主を娶った。初期には高麗王室も一定の影響力を保っていたが、次第に征東行省(第一次と第二次征東行省では高麗王は次官だったが、第三次では排除)は高麗朝廷の人事にも関与する様になり高麗領は元の支配下へ組み込まれた。

大陸で「紅巾の乱」が起こり元(モンゴル帝国)が衰え始める時期には「征東行省」による支配も形骸化、高麗恭愍王(1351年 ~1374年)は、1356年に元と断交し、北辺を奪還して蒙古侵入以前の高麗の領域を回復し独立

さらに鴨緑江西方へ遠征し制圧した。

 

1350年頃から活発化した倭寇にも高麗は苦しむことになる。1356年から1362年までの紅巾賊侵入に至っては都・開京が陥落したが、高麗軍は10万人に及ぶ紅巾軍を撃退、開京の奪回に成功する。1359年には西京(平壌)で、1361年には黄州で、紅巾軍に大勝した。

 倭寇に対しても次第に勝利し、1389年の対馬攻撃以降倭寇の侵入は激減する。1368年に明が中国に興り、元を北に追いやると1370年に高麗は明へ朝貢して冊封を受けたが明から元の旧領返還を要求があり、高麗政権内では、親明派と親元派に別れて抗争が起こった。 倭寇や元との戦いで功績をあげ台頭した武人李成桂(女真族ともいわれる)は、1388年に当時の親元派政権が明に対抗するため遼東半島に向けるはずであった遠征軍を引き返させてクーデターを起こして政権を掌握。1389年に恭譲王を擁立すると、親明派官僚の支持を受けて体制を固め、1392年に恭譲王を廃して自ら国王に即位し、朝鮮王朝(李氏朝鮮)を興す。ここに高麗は建国474年で滅びた。

 

朝鮮半島の歴史(全編)はここまで

 

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