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政治のお勉強(後編)

自民党の派閥=日本式政党政治の歴史

 

1955年「吉田茂」率いる「自由党」と「鳩山一郎」率いる「民主党」が 合同して「自民党」が出来たのだから派閥の原点もここにある。

1994年まで衆議院選に採用されていた「中選挙区制」(日本独自の名称)一つの選挙区からおよそ3~5名を選出する選挙制度です。 「政権政党ならば単独過半数以上を目指す訳でひとつの選挙区に複数の候補者を擁立する事になり、党内での票争いは避けられない」候補者は党内での対立候補が最大の敵となり いかにして対立候補より、地元(選挙区)に利益還元をアピールし認められるかが、政治活動の肝とされた。派閥組織は候補者擁立や対立の調整と直結していた。だから自民党内の派閥数は、候補選出(選挙区3~5議席)と比例して5派閥に淘汰される宿命だった。長期政権を維持した自民党にはまるで党内に、もうひとつの議会政府(派閥が政党の役割を果たした)が、存在する程の権力と金が集中する事になる。

まず「吉田派」自由党系の後継「池田勇人」(池田派)「佐藤栄作」(佐藤派)が誕生、「鳩山派」民主党系の後継「岸信介」(岸派)「河野一郎」(河野派)が誕生、そこに三木武夫の(三木派)が加わり5派閥に・・・

岸→池田→佐藤で15年以上の長期政権の後を

「三角大福」+「中」の5氏領袖(派閥会長)に引き継がれ、総理総裁をめぐる党内での激しい勢力争いが繰り広げられた。福田派と大平派の争いは党内に分裂を招き「ハプニング解散」(福田派のボイコットにより、大平内閣不信任案が可決し解散総選挙に突入)*選挙期間中に大平総理急死

大平の急死後に、大平派番頭「鈴木善幸」総理の後を受けた「中曾根康弘」は「田中派」の力を背景に就任した後、「ロッキード事件」が発覚し、世論の風当たりが強まると、田中派との決別を直ちに宣言し「風見鶏」と言われた抜群の政治的センスを発揮し、任期満了に至る長期政権を続けて、後世に残る「行政改革」を成し遂げた。

ところが、次の竹下内閣でも「リクルート事件」が発覚し、その後の宇野・海部・宮澤 内閣誕生と竹下派「経世会」との関係が、世論の「権力と金」への不信感を生む潮流となり政権政党の交代を生み野党連立政権「細川内閣」主導による政治改革(小選挙区比例代表並立制・政党交付金の支給など)が断行されました。 1993年(平成5年)~

小選挙区制では、同選挙区での党内での複数の候補者擁立はありませんから「公認権」を持つ「幹事長」率いる「党執行部」が権力を握る形になります。「総幹分離」(1979年から続く、総裁の派閥から幹事長を出さないという慣例)は概ね維持され「閣僚任免権」をもつ総理総裁と「党役員任免権・公認権」をもつ幹事長は政権の2枚看板として、自派から総理総裁を排出していない時は幹事長を擁立するという、巨大派閥の永続的支配力・影響力の新たな原理を生みだします。

田中派の二階堂進、竹下派の金丸信、の時代が終焉を迎えると、福田派(清和会)を継いだ安部派の四天皇(三塚・塩川・加藤・森)の一人で、中曾根政権で初の入閣(文部大臣)を果し、三塚の派閥継承をいち早く後押しした「森喜朗」が重要役職を歴任し、二度の幹事長を努めた後、2000年に総理総裁に就任する。

森政権の幹事長が「野中広務」「古賀誠」であった。野中は経世会、古賀は宏池会

清和会の総理総裁就任は、福田政権以来22年ぶり。以降、権勢をふるう事になる。

 

「宏池会」 鈴木善幸→宮澤喜一→加藤紘一(2000年森内閣時 加藤の乱 で分裂)

森の総裁就任後に清和会会長は「小泉純一郎」が就任した。 森内閣の官房長官は安倍晋三と福田康夫が就任、森をしっかりサポートする。

森内閣退陣後小泉純一郎・安倍晋三・福田康夫と、4代清和会の首相が続く事になる。ただし小泉純一郎は内閣総理大臣就任後、恒久的に派閥を離脱し、会長には森が復権した。

安倍総理就任に合わせ、町村信孝に派閥会長を譲り、町村が福田内閣の官房長官に就任すると世話人(町村・中川・谷川)の集団指導体制に移行、町村派は衆参両院で最大派閥となる。

【小泉純一郎】

 1991年に海部政権続投を後押しする経世会(竹下派)に反旗を掲げ、盟友である加藤紘一(宮澤派)山崎拓(渡辺派)と自身が所属する(三塚派)をまとめ再選を阻止し、後任である宮澤内閣で郵政大臣に就任。かねてからの持論である「郵政民営化」を推進しようとしたが「郵政族」といわれた反対勢力に阻止される。

 

その後、自民党が野党に下ると「野中広務」が率いる「平成研究会」(旧竹下派)が主導的な力を持つ事になる。1995年に「平成研究会」が総裁に押す「橋本龍太郎」に反対し、対抗馬「河野洋平」を押すが、河野は出馬を断念、「森喜朗」も推薦を辞退した為、小泉自身が出馬を決意するが、推薦人を集めるのにも苦労する有様だった。

それでも若手議員には人気があり(中川秀直・安倍晋三など)の支持を得たが完敗した。

1996年橋本内閣が発足、第二次橋本内閣で厚生大臣就任する。

橋本内閣が倒れると次期総裁選に再び立候補したが、最下位に敗れる。

2000年森内閣誕生、森派(清和会)会長に就任すると「加藤の乱」(加藤紘一・山崎拓の森内閣不信任案同調)を切り崩し阻止し、党内での評価を上げた。 

2001年 森退陣を受けた総裁選に三度立候補、橋本龍太郎・麻生太郎・亀井静香と争う。最大派閥の橋本龍太郎の勝利が有力視される中、田中真紀子との協調など派手な選挙戦を展開し、世論を味方に予備選(党員・党友選挙)を大勝、ついに本選(議員選挙)も圧勝し自民党総裁に選出された。公明党、保守党、無所属の会の支持を受け総理に就任した。

小泉は組閣にあたり、従来の派閥順送り人事を辞め、慣例となっていた派閥推薦を一切受け付けずに、人事を全て自分で決めた。

「官邸主導」の流れを作ったのである。

幹事長:山崎拓(少数派閥の領袖)世論に人気の石原伸晃、田中真紀子を大臣に据えて、民間からは経済学者の竹中平蔵を経済財政政策担当大臣に起用した。女性閣僚は5人

特殊法人の民営化など「小さな政府」を掲げた政策は党内「族議員」の反発を更に煽った。2003年総裁選では、野中広務が小泉おろしを画策するが失敗、野中広務は政界を引退する。第二次内閣では、当選わずか3回の安倍晋三を幹事長に起用する。また中曾根康弘・宮澤喜一両氏に引退勧告をした。

2005年ついに「郵政民営化関連法案」採決に、反対派の亀井静香が長老 綿貫民輔を担ぎ出し100人近い議員を集めたが、衆議院を辛うじて通過。 参議院においては阻止に自信を見せる亀井静香と否決ならば「解散総選挙」に出ると譲らない小泉内閣であった。

参議院で否決されると、即時解散に踏み切り、解散署名を最後まで拒否した島村大臣を罷免し自ら大臣兼任、衆議院解散を閣議決定した。

解散選挙では、法案に反対した議員全員に公認を与えず、同選挙区に自民党公認候補「刺客」を擁立した。選挙の結果は自民党の圧勝、小泉内閣が再選し法案も衆参両院を通過、成立した。

第三次小泉内閣が発足すると、ポスト小泉と目された 麻生太郎が外務大臣、谷垣禎一が財務大臣に、安倍晋三が内閣官房長官に起用された。

2006年任期満了に伴い、安倍晋三を後継総裁に選び、退任する。

中曾根康弘以来の任期満了に伴う退任で、戦後4番目の長期政権であった。

安倍内閣ー福田内閣と続き、麻生内閣が成立した翌日、2008年 政界引退を発表した。

【第一次安倍内閣】2006年(平成18年)9月~

「美しい国づくり内閣」

「創りあげたい日本がある。 美しい国、日本。」

「地域に活力。成長で活力。 暮らしに届く改革。」

「成長を実感に! 改革を貫き、美しい国へ。」

「戦後レジームからの脱却」

「改革実行力」

安倍晋三が第一次内閣でスタート時に掲げたスローガンである。

小泉内閣から引き継いだ懸案は安倍自身を高揚させるような大きな政治課題であった。

2006年(平成18年)

「 教育基本法」改正 12月15日成立

教育基本法は、その名のとおり、日本の教育に関する根本的・基礎的な法律である。教育に関するさまざまな法令の運用や解釈の基準となる性格を持つことから「教育憲法」と呼ばれることもある。

 

GHQ占領下 1947年(昭和22年)公布・施行の「教育基本法」の全部を改正したものである。

第三次小泉内閣で 2006年(平成18年)4月28日、「 教育基本法」改正案を閣議決定

 2006年(平成18年)1月~6月通常国会に提出 審議が開始された。

目的や経緯が伝わるかと思うので国会審議の冒頭(小泉首相・伊吹文部科学大臣 答弁)をご紹介します。

【質問】 教育基本法を改正する理由は何か。

 

小泉内閣総理大臣:

教育基本法案を提出した理由でありますが、戦後、 教育基本法の理念のもとで構築された教育諸制度は、国民の教育水準 を向上させ、我が国の社会発展の原動力となってきたと思います。 しかし、科学技術の進歩や少子高齢化など、教育をめぐる状況が大 きく変化する中で、道徳心や自律心、公共の精神、国際社会の平和と 発展への寄与などについて、今後、教育において、より一層重視する ことが求められてきております。 このため、教育基本法を改正し、新しい時代の教育理念を明確にす ることで、国民の共通理解を図りつつ、国民全体による教育改革を着 実に進め、我が国の未来を切り開く教育の実現を目指すものでありま す。 

 

伊吹文部科学大臣:

現行の教育基本法が改正になりましてから、これ はもうだれが見てもわかることですが、大きく状況が変わってきてお ります。まず、冷戦構造は崩壊をいたしましたし、日本社会は、抽象 的な言葉になりますが、経済成長を達成した中で、豊穣の中の精神の貧困という状態であろうと思います。それを反映して社会的にもいろ いろな残念な事柄が起こっておりますし、学校現場でも、現在、未履修あるいは「いじめ」というような残念な現象が起こっております。  これらを総括して、日本がこれだけ大きな国際社会の中の存在にも なってきているわけですから、まず現行教育基本法は、これは私は 大変立派な法律だと思います。これは、世界どこへ持っていっても立 派な法律として通ると思います。しかし、日本にはやはり日本の祖先 が営々として築き上げた法に書かれざる暗黙の申し合わせというか伝統というか社会規範というか、こういうものがございますから、まず、 これをはっきりと再認識する教育を取り戻さないと、現在の豊穣の中 の精神の貧困という状態からなかなか抜けられない。同時にまた、大学教育の必要性、今後の経済成長その他のことを考えると、これもま た大切だ、あるいはまた私学の役割が非常に大きくなってきている、 同時にまた家庭での教育というもの、あるいはしつけと言った方がい いかもわかりませんが、これもやはり教育の大きな要素である。  こういうことが現行の教育基本法に抜けておりますので、教育の包括法としての理念法をこの時点で変えさせていただいて、むしろもっと早く私はやるべきであったのではないかと思いますが、この時点で 変えさせていただいて、そしてその理念のもとで教育に関する三十数 本の法律を総点検して、新しい日本人像をつくり上げて未来に備えて いきたい、これが私の思いでございます。

ー以上ー

勿論、文部科学省の官僚の皆さんが筋書きした答弁でしょうから、小泉首相の意思・意向はキチンと織り込まれていると思います。これを第一次安倍内閣が引き継ぎ、就任から3か月後に成立させるのですが・・・安倍晋三は第三次小泉内閣官房長官時代から国会答弁に参加しています。小泉さんは安倍晋三に手柄を分けてあげるつもりでいたようです。  安倍内閣では「教育基本法」成立後、これにもとづいて、「学校教育法」などの「教育改革関連三法」も改正され、2007年6月に成立しています。しかし、この内容には正直憤りを感じる点も多く、最初の大仕事に気を良くした安倍晋三が、出しゃばりすぎの悪法を、ねじ込んだとしか言えない内容、さぞ現場は不愉快な思いでいるのではないでしょうか。

2006年(平成18年)

防衛庁設置法等改正12月15日成立 (防衛庁・省昇格法)

 

2007年(平成19)防衛庁が「防衛省」に昇格しました。国土防衛の強化を目指した措置です。

敗戦から5年後の1950年、占領下の日本は米国の意向を受けて「警察予備隊」を組織。1952年の「保安隊」への改組を経て1954年に現在の「自衛隊」が発足しました。「防衛庁」は、この時に誕生した総理府(現・内閣府)の外局です。その後、およそ半世紀が経過した2005年、小泉純一郎内閣の下、防衛庁の「省」への昇格に向けた議論が本格化しました。

政権を引き継いだ、安倍内閣が翌2006年12月、関連法案を国会で成立させました。

庁から省に昇格すると、内閣府を経由していた予算要求を独自にできるようになるほか、自衛隊員の士気向上にもつながるとされました。 一方、防衛省の誕生による軍事大国化や防衛費の膨張を警戒し、野党を中心に反対の声が上がりました。2019年度の防衛予算案は5兆2,574億円と5年連続で過去最高でした。多いか少ないか議論の分かれるところです。

政権の最初は前政権の後かたずけが仕事であり、誰もが粛々とこなすものです。

安倍晋三は小泉純一郎を引き継ぎました。

前政権の官房長官から継続なので比較的にスムーズな代替わりでしたが、後かたずけも「ビック」で並みの政権では扱えないものでした。お調子者な性格なのかすぐに「自分が創造したもの」「自分の信念」と頭の中ですり替わり政権スローガンが出来上がったように思います。

 

それでも、体調不良による降板の落ちはついてしまいますが、閣僚の不祥事のバッシングに明け暮れた低俗なマスコミ評価よりは「いい仕事」をしたように僕は思いました。

さて、この後はどうなるのでしょうか?

2007年9月12日:安倍晋三が内閣総理大臣辞任を表明翌13日「福田康夫」が総裁選出馬を表明します。

麻生太郎が対抗馬だったが、麻生派以外全ての派閥が福田を支持し、自民党総裁に就任した。

 

福田康夫を世に知らしめたのは、森内閣の官房長官に小泉純一郎(派閥会長)が異例の抜擢をした時だろう

森首相の失言の度に登場し、絶妙の対応で、冷ややかに切り抜けた姿が独特の存在感として話題となった。ポスト小泉とも目されたが、本人は見送る。

 

ポスト安倍では立候補し、総裁を勝ち取るが、国政の総理指名選挙においては与党過半数の衆議院では圧倒的多数で指名され、野党過半数の参議院では、民主党小沢一郎が指名を受ける「ねじれ国会」の象徴的な現象がおきた。衆議院優先の原理で福田総理が誕生。

その1年後、2008年9月総理大臣辞職を発表し、あっさりと身を引いてしまう。

父は剛腕田中角栄を向こうに、静かな顔で理を諭すような玄人好みの政治家だった。

息子もまた充分に、その資質を受け継ぎ、静かだが骨太な政治家であったと思う。「斜に構えているが泥を被ってもやり遂げるという所があった」政敵 菅直人(談)

外交に精通しており、多くを成し遂げるが(政界では外交は票に繋がらないが定説)手柄を独り占めせずに、皆に分け与えた。「目立とうとしない政治家は珍しい」 「確実に面白い事を言う」など福田の父譲りとも言える、玄人好みの政治家資質を称賛する声は多い。外交含め紹介したい功績は多いが、福田のズピリッツが感じられる一つを!

道路特定財源制度(田中角栄政権が財源確保の為に作った制度)の一般財源化は、小泉政権の聖域なき構造改革ですら実現を見送っており、続く安倍政権では余剰分のみしか一般財源化できず失敗したことから歴代政権でも断念した難題と指摘されており、実現できれば画期的だが、実際には難航すると予想された。

2008年【3月】

福田は総理大臣官邸で突然、緊急記者会見を行う。

道路特定財源制度を全て廃止し、2009年度から一般財源化すると正式発表した。

道路整備中期計画については整備期間を半減させ、整備計画や一般財源の使途については与野党協議会での協議に応じると提案した。また、公益法人や道路整備特別会計については、無駄な支出の排除徹底を重ねて表明した。さらに、仮に民主党と2008年度予算関連法案について合意できなくても、2009年度からの一般財源化は実施すると明言した。

 

臨時記者会見の発表内容について、財務省、国土交通省、与党役員、道路族議員、には 相談せず、福田と一部の官邸スタッフだけで策定された。会見の直前に内容を知らされた幹事長:伊吹文明は「そこまで踏み込む必要はない」「今日会見しなくてもよいのではないですか」「そんなの踏み込みすぎです」 電話で福田を説得したが福田は応じなかった。驚いた幹事長代理:細田博之は「皆さん軟弱だ。『殿、ご乱心』と言ってくる!」と政務調査会長の谷垣禎一とともに官邸に駆けつけたが、福田は「世論の相場観はそうだろ」と指摘し、与党側の説得を一蹴し、臨時記者会見で発表した。

自民党の河野太郎は、党の反発を押し切った福田の姿勢を「総理による宮廷クーデター」と評し、福田提案により、自民党内の一般財源化主張派が「抵抗勢力から近衛部隊に一変した」とした。河野や水野賢一ら、一般財源化主張派は福田提案への賛同者を募り、他党の議員をも含む「福田提案を支持し道路特定財源の一般財源化を実現する会」を結成した2008年【3月】

国会対策委員長の大島理森が、福田提案を正式な与党案とすることを表明、翌日には閣僚らが福田提案の具体化に向け協議を開始した。

2008年【4月】

政府、自由民主党、公明党は2009年度に道路特定財源を全廃することで正式合意し、福田総理は「道路特定財源を廃止し、一般財源化を進めるため、与野党協議を進めていただきたい」と指示した。

2008年【5月】

福田総理は若手議員を官邸に集め「これをできないような自民党や公明党に明日はない。必ずやり遂げる」 と鼓舞激励し、翌日に道路特定財源の全廃を閣議決定した。

 

ー以上ー

 

福田内閣の退陣を受けて総裁選、通算4度目の立候補で麻生太郎が内閣総理大臣に就任する。

2008年9月 麻生内閣 誕生

2009年8月 衆議院総選挙で惨敗

衆議院第一党から転落 退陣を表明

2009年9月 内閣総辞職

300議席以上獲得した「民主党」鳩山由紀夫に政権を明け渡した。「政権交代」である。

 麻生政権の功績は・・・?

リーマンショックへの対応や景気対策が一定の評価を受けているようだが・・・

よくわからん・・・

【民主党】って・・・

とても壮大な政治ロマンなのです。

主人公はもちろん「小沢一郎」その人です。

僕の親父は「いっちゃん」と呼んで親しんでいましたが、若い世代には、とことん評判が悪く、僕は「人相で政治家を見てはいかん」とつくづく思うのです。

その行いを見ていきましょう。

 

【小沢一郎】

これまでも、度々登場してきた「小沢一郎」さらりとおさらいすると1969年(昭和44年)

自民党公認 27歳で初当選、この時、党幹事長として選挙を仕切ったのが「田中角栄」であり「木曜クラブ」(田中派)に所属する。田中内閣でも若手として活躍するが、この時の面倒見役が「金丸信」である。1982年に選挙対策委員長に就任すると1983年参議院選では中曾根首相ら党執行部と対峙し持論を通し、絶妙な票割を行い、谷垣禎一と野中広務の新人2人を同一選挙区に擁立、両者当選させ「まるで名医の手術をみてるようだ」と言わしめた。しかし入閣は遅れ、これは田中による圧力だったと言われている。

1985年竹下・金丸の派閥内派「創政会」に参加、1987年「経世会」独立、竹下派内では、先輩の「橋本龍太郎」「小渕恵三」らと共に「七奉行」と言われ、竹下の総理就任に奔走した。海部政権で「党幹事長」に就任すると「野党対策・外交政策」などを取り仕切り、海部首相を飛び越して、米国大使と直接協議する事が常態化するほどだった。

金丸は小沢に「経世会」を譲り、海部の後任総理に就ける事を臨んだ。「海部おろし」の動きを察知した海部は解散をちらつかせ「重大な決意で臨む」と発言し抵抗するのだが、小沢は 「マスコミの前で(海部は)何ゆーちょるの~」と発言し、一蹴りにした。  金丸の意を受けて「渡辺恒三」などが総理就任の説得に回るが、小沢はこれを固辞した。(後年「なりたければ、この時になった」と語る)「経世会」が総裁候補を立てなくなると、それまで共闘して「経世会」に対抗していた宮澤派・三塚派・渡辺派は一転して、「経世会」に支持を求めるようになった。

 総裁候補の三人が、それぞれ小沢の個人事務所を訪れ、面談した(小沢面談)は当時の政治力を物語るエピソードである。

1992年金丸信が「東京佐川急便事件」により失脚すると、後継会長人事を巡り羽田を推す小沢と、小渕を推す竹下、橋本、梶山が対立し派閥は分裂する。

1993年 反主流派となったこの頃から、小沢は主流を「守旧派」自らを「改革派」と呼ぶようになり、持論の「政治改革」を全面に推し出す。著書「日本改造計画」は70万部を超えるベストセラー本となり、ここで提示された内容は、90年代以降の政治課題を先取りしたものだった。

 1993年【6月】宮澤内閣不信任案では、羽田派・小沢派らの39名が賛成 19名が欠席する造反により、255対220で可決、宮澤内閣は衆議院を解散した。同月、武村・鳩山ら 離党→「新党さきがけ」羽田・小沢ら 離党→「新生党」が結党された。

【7月】総選挙では「日本新党」を含む3党が大躍進し、自民党は過半数割れ、宮澤内閣は総辞職した。

この選挙で「枝野幸男」「前原誠司」「野田佳彦」ら、後に「民主党」の主要メンバーとなる議員が、政治改革を訴えて日本新党から多数初当選した。小沢は、総選挙直後から、非公式に日本新党 細川党首と会談をかさね次期総理を打診し、細川の自民党との連立案を心変わりさせた。1993年【8月】 8党派連立の細川内閣が成立した。

しかしその後は、武村と小沢の対立がきっかけで、連立与党内で内紛が勃発、細川総理は嫌気がさして突然、辞意を表明してしまう。

後任を羽田内閣が務めるが、社会党が連立与党を離脱すると羽田政権は少数与党となり、1994年【6月】内閣総辞職となった。小沢は後任に、かって自在に操った 海部元総理の擁立を企てるが、野党に甘んじていた「自民党」が動き「社会党」村山富市を推して政権復帰を目論む、海部が自民党を離党し総裁選に立候補、決選投票となり、結果は261/214で村山に軍配が上がり、「自・社・さ」連立政権が樹立された。

小沢一郎 自身は政治家人生で、初の政権落ち、野党 暮らしとなった。

1994年【9月】日本共産党を除く野党各党187人により、衆院会派「改革」が結成された。

同日、衆議院議員186人参議院議員39人、計225人の国会議員による「新党準備会」が正式に発足し、実行委員長に小沢が選出された。

 

こうして小沢を中心に新・新党結成が準備同年【12月】「新進党」結成大会が行われた。海部が党首となり、小沢は党幹事長に就任した。

1995年【7月】参議院選挙では、改選前19議席から40議席を上回る大躍進で同年【12月】の党首選では細川・羽田による「小沢はずし」の動きを察知して、自ら出馬し、かつての盟友羽田と激突、これを制し第二代党首に就任したが、党内には亀裂が生じた。

1996年【9月】「新党さきがけ」を離党した「鳩山由紀夫」「菅直人」らが社民党右派を取り込み 旧「民主党」を結党。

57議席の船出だったが【10月】衆議院総選挙を横ばいで乗り切り党は安定の方向へ進む。

 

一方で小沢「新進党」は160→156議席4議席減で事実上の敗北求心力は急速に低下した。 1996年【12月】羽田は衆参両議員13人を引き連れ「新進党」を離党「太陽党」を結党。1997年(平成9年)

「新進党」小沢は「自民党」亀井静香らと提携する。保保連合構想に大きく舵を切った。

1997年【12月】「新進党」の再生が困難だと判断した小沢は解党を宣言した。

1998年【1月】「自由党」を結成、小沢は党首に就任した。

100名以上の衆参両議員が集まると思われたが、結局、衆議院議員42名、参議院議員12名の計54名が参加するに留まり、野党第1党の座を 旧「民主党」に譲り渡した。

旧「民主党」は「新進党」解党後に結成された「民政党・新党友愛」や「民主改革連合」と院内会派「民主友愛太陽国民連合」(民友連)を結成し、合流に向けた協議を進めた。 

 

旧「民主党」の枝野幸男「民政党」岡田克也「新党友愛」川端達夫らが協議合意に至り、1998年【4月】新たな「民主党」が誕生した。

 

1998年【7月】参議院選挙

「民主党」(党首:菅直人)は

大型公共事業の抜本的見直しや地方分権の推進などを訴え10議席増の27議席を獲得した。しかし、衆議院で単独過半数の回復に成功していた自民党と比して二大政党の一角と見る動きはまだ少なく、最大野党という位置付けであった。

「自由党」は

苦戦必至と思われたが小沢人気もあり比例代表で514万票、合計6議席を獲得し善戦した。

 

参院選後の首班指名に野党統一候補として「民主党」菅直人党首が臨み、参議院では使命を獲得、衆議院では「自民党」小渕恵三が選ばれ、優先され小渕内閣が誕生する。

「自由党」小沢は「民主党」菅の「政局にしない」という弱腰な姿勢に呆れた。

 

1998年【10月】「自由党」小沢は小渕内閣の官房長官「野中広務」と会談し、連立交渉を開始した。 小沢は国政選挙を上回る宣伝費を使って、自身の顔写真を用いたポスターを全国の街頭に貼り張り巡らし、自身の顔写真を押し出したCMを連日放映し、交渉を優位に進め、同年【11月】自民党との連立政権について小渕と合意書を交した。

1999年【1月】正式に「自・自連立政権」発足、「自由党幹事長」野田毅が自治大臣入閣小沢は5年ぶりに与党へ復帰した。

 

1999年【9月】代表選挙で菅を破った鳩山由紀夫「民主党」代表に就任。

 

小沢は総裁の小渕総理大臣に対して自自両党の解散、新しい保守政党の結成を要求した。中曽根康弘、亀井静香等は小沢の復党を認める方針であったが、自民党内の反小沢勢力は「小沢の復党は認められない、小沢抜きでの復党は認められる。」とし、 小沢自身も「復党が認められなければ連立解消だ。」と応酬し、両者は2000年【4月】会談するが、合意に達せず結局連立を解消した。直後に小渕は脳梗塞で倒れ2000年【5月】死去した。

 

「自由党」は、小沢を支持する連立離脱派と、野田毅・二階俊博などの連立残留派に分裂残留派は「保守党」を結成した。(分裂の結果「自由党」は衆院議員18名、参院議員4名の計22名に半減「保守党」には26名が参加)

 

小沢と袂を分かった「保守党」は、政党助成金を半分ずつ分け合うために分党を要求したが、「自由党」はこれを拒否した。保守党議員は離党扱いになり、政党助成金を全く得られず総選挙を迎えることとなった。

 

2000年【6月】「自由党」分裂直後の衆議院選挙

「自由党」は

小沢人気もあり比例代表で約660万票を獲得、18→22議席を獲得し善戦した。

このとき約20億円を投じたとされるテレビCM(小沢が顔を殴られる)は話題となった。(一方、保守党は7議席へと激減)

連立離脱後の「自由党」は野党共闘路線へ舵を切ることを余儀なくされたが、過去に小沢と対立した旧新進党や、旧社会党出身者が多い「民主党」を始めとした 野党との関係は良好とは言い難かった。

「民主党」は(党首:鳩山由紀夫)

定数削減にも関わらず、95→127議席の大躍進で、二大政党時代の到来を宣言した。とはいえ、「自・公・保」連立政権は引き続き安定多数を維持しており、与党を過半数割れに追い込む狙いは達せられなかった。

 

2001年【4月】小泉内閣が公共事業改革や分権改革を推し進める「聖域なき構造改革」を掲げて発足。

これらの改革は「民主党」の政策と共通するものを含んでいたため、鳩山は小泉に対し「協力することもやぶさかではない」という姿勢も見せ始めるようになる。以後、小沢が代表に就任する2006年までは、改革の速度や手法を競う「対案路線」で与党と対峙することになる。

2001年【7月】参院選

「民主党」

小泉旋風の前に伸び悩んだものの、4議席増の26議席獲得し引き続き党勢を拡大させた。選挙公約には、道路特定財源の一般財源化、天下り禁止法の制定、全てのダム建設の一時凍結などが新たに盛り込まれた。

「自由党」

小泉旋風が吹き、小沢の地元・岩手県選挙区でも大苦戦を強いられたが僅差で勝利した。議席数は前回と同じ6を維持したものの、「自由党」の比例代表は約420万票に止まった。(前回参議院選挙より約100万票、前回衆議院選挙より約220万票の減少)

2002年(平成14年)

参議院選挙での結果もあって、小沢は鳩山由紀夫(当時民主党代表)からの民主・自由 両党の合併に向けた協議提案を受け入れた。

 

しかし、民主党内の調整が不十分であったこと、及び民主党内の小沢に対する拒否反応のために頓挫した。

鳩山は民主党代表辞任。鳩山辞任後に党代表に返り咲いた菅直人によって、いったん合併構想は白紙に戻ったが、小沢は党名・綱領・役員は「民主党」の現体制維持を受入れることを打診し、枝野ら強硬に反対を唱える声もあったものの 2003年【9月】「自由党」は「民主党」と正式に合併。

新生「民主党」が誕生し、小沢は「一兵卒になる」と宣言して無役となった。

この合併により「民主党」は両院合わせて204人(衆院137・参院67)党勢を拡大させた。

 

2003年【11月】衆議院総選挙(日本初のマニフェスト選挙)

明確に「政権交代」を打ち出し改選前を40議席上回る177議席を獲得、大きく躍進する。比例区の得票数では自民党を上回った。

選挙勝利を受けて小沢は「代表代行」に就任した。

 

高速道路の原則無料化、年金制度の一元化、衆議院の定数80削減などがこの選挙から新たに政権公約に加えられた。

 

2004年【5月】年金未納問題による混乱の責任を取り党代表を辞任した菅の後継代表に、小沢が内定したが辞退。結局、若手の筆頭格であった「岡田克也」を無投票で選出した。

 

2004年【7月】参議院選挙

発足間もない新体制に一部不安視する声もあったが、50議席を獲得し、国政選挙において初めて自民党(49議席)に勝利を収めた。

この時期から「政権選択選挙」という言葉が急速に現実味を帯び始めるようになる。

選挙後、小沢は岡田党首の要請により「党副代表」に就任した。

2005年【8月】衆議院総選挙

首相の小泉純一郎が「郵政民営化」是非を問うとして衆議院を解散。自民党は民営化に反対した「造反議員と刺客候補」による党内、分裂選挙に突入した。

選挙戦の序盤は「漁夫の利」で「民主党」に楽観的な論評も飛び交い「政権交代」を確実視する向きもあったが「造反議員」と「刺客候補」の対決構図が、連日のように報道されていく中で、政策論争は次第に世論の関心を失い「民主党」は「小泉劇場」の前に埋没。結局改選前を大きく下回る113議席に終わった。岡田は即日代表辞任の意向を表明した。小沢も「党副代表」の職を辞して6日後に行われた「党代表選挙」にも立候補しなかった。

党代表後継には、菅直人と「前原誠司」が名乗りを上げた。当初は、菅有利と見られていたが、 最終演説で投票議員の心を掴んだ前原が僅か2票差で選出された。前原は小沢に「党代表代行」への就任を依頼したが、小沢はこれを固辞した。

 

前原は、「脱労組・世代交代」を打ち出し、党の再建に着手。43歳の前原は清新なイメージを与え耐震偽装問題での証人喚問が世論の喝采を浴びるなど新生「民主党」は順調な出直しに見えた。

2006年【2月】「堀江メール問題」が起きると一転して激しい世論の批判を浴びる。

【堀江メール問題とは】

国会で「民主党」永田衆議院議員によるライブドア事件および堀江貴文にまつわる質問から発した政治騒動。

粉飾決算事件の渦中にあった堀江が2005年の衆院選出馬に関連して武部勤自民党幹事長(当時)に多額の金銭を送った「疑惑の証拠」とされた堀江による電子メールが捏造であったと判明し永田は議員辞職し、民主党執行部は総退陣に追い込まれた。

2006年【4月】代表選挙で小沢は119票を獲得して菅直人を破り、民主党代表に選出された。

 

演説で小沢は「変わらずに生き残るためには、変わらなければならない」という19世紀のイタリア貴族の没落を描いた映画『山猫』の一節を引用し、その上で「まず、私自身が変わらなければなりません」と述べた。

代表選後は、菅を党代表代行、鳩山由紀夫を党幹事長にする「トロイカ体制」を敷いた。また、前執行部と次の内閣メンバー全員を残留させた。

小沢体制では、まず「小泉構造改革を否定する」という大きな政策的転換が図られた。 それまで「民主党」の方針であった経済成長路線は影を潜め、子ども手当の導入、農家への戸別所得補償といった多額の財政出動を伴う、政策が打ち出された。

地方組織が磐石ではない「民主党」にあって、小沢は各議員・候補に徹底した地元活動を求めるなど、地盤の強化にも力を注いだ。

 

2007年【4月】統一地方選挙(前半)(後半)

小沢の地元・岩手県の知事選挙で「小沢チルドレン」代表格である「達増拓也」が当選。岩手県議会議員選挙でも、議席を増やし第1党を維持し、その他の道府県議選・政令市議選でも民主党は230議席(合併前の自由党含む)から145議席増え375議席に躍進した。

(後半)市町村議会選挙で、自民党が過去最低議席数になった他、他党が前回議席を割り込む中、民主党は3割近く議席を伸ばした。

 

2007年【7月】参議院選挙

 60議席獲得と大勝。ついに参議院で与野党を逆転させた。以後「ねじれ国会」となった。

 

2007年【8月】11月に期限切れとなるテロ対策特別措置法(テロ特措法)問題について、小沢は、アフガン戦争が国際社会のコンセンサスを得ていないとして、海上自衛隊の支援活動は認められないと主張し、反対の意向を示した。安倍内閣は事態を打開すべく、小沢との直接会談を検討したが実現せず、安倍晋三の体調の悪化などもあり、2007年【9月】に辞任を表明した。結局、テロ特措法は安倍内閣総辞職の影響もあり、期限の延長ができずに失効した。

 

自民党総裁に「福田康夫」が就任、衆議院で福田、参議院で小沢が総理に選出、衆院優先で福田が総理に就任すると、すぐに自・民大連立構想が持ち上がるが、「健全な二大政党制」を望んでいた民主党役員会では小沢を除く全ての議員がこれに反対、世論も同様の反応を示した。その後、民主党は2008年のガソリン国会などで抵抗を続け、ねじれ国会の中で有利に戦いを進めた。この頃には首都圏の政党支持率では自民党を圧倒するようになった。

 

2009年【5月】西松献金問題で小沢は代表を辞任した。

後継に鳩山を推薦、対抗馬、岡田を抑えて「鳩山由紀夫」が代表に就任する。

 

2009年【7月】麻生内閣、衆議院を解散する意向を表明。

この月、NHKの全国世論調査で初めて民主党が政党支持率で自民党を逆転した。

【政権交代】

2009年【7月】衆議院が解散され選挙戦に突入する。

鳩山はこの総選挙を「政権交代選挙」と銘打ち、連立をみすえる社民党・国民新党と合わせて過半数の議席確保を目指した。

マニフェストには、前回の参院選で訴えた内容とほぼ変わらぬ政策が盛り込まれた。

各種世論調査では終始民主党の圧倒的優勢が伝えられた。

結果、絶対安定多数を超える308議席を確保して、結党以来の悲願であった政権交代をついに実現する。

308議席は一つの党が獲得した議席数としては戦後最多であった。

 

2009年【9月】鳩山党首の要請をうけ、民主党両院議員総会において、小沢は「幹事長」に就任した。鳩山内閣が正式に発足し、社民党・国民新党との連立政権が誕生した。

2010年以降

小沢をはじめとする所属議員の政治資金問題、鳩山自身の献金問題も、国会などで厳しい追及を受け、世論の反感を買う事になる

「普天間基地移設問題」では、移設先を「最低でも県外が期待される」と総選挙時に明言していた鳩山は、沖縄及びアメリカが合意していた辺野古沿岸部へ移設する現行案を白紙に戻し、県外・国外移設の道を探っていた。しかし移設先を見つけることができず、これを断念。失望した沖縄が現行案の辺野古沿岸部案をも受け入れ撤回する事態に発展してしまい、移設問題は大きく後退してしまう。

(この際、県外移設を求めた社民党が連立を離脱した)

野党時代の民主党の主張と、与党としての民主党の能力や政策との乖離が徐々に明らかになるにつれ、鳩山内閣への国民の不信はピークに達し、来る参議院選挙予測で惨敗が濃厚になると鳩山は事態打開のため、一連の問題の責任を取る形で首相を辞任した。

 

後継の代表選挙は、まず小沢の影響力排除を目指す副総理兼財務大臣の菅直人がいち早く出馬を決め、小沢と距離を置く議員から支持を受けた。これに対し、党内最大勢力を誇る小沢グループは中立派として出馬した樽床伸二を支持した。

2010年【6月】両院議員総会では、小沢グループ以外の票を固めた菅が圧勝した。菅内閣の発足にあたり、幹事長に枝野、内閣官房長官に仙谷由人など、主要ポストにはいずれも非小沢の急先鋒を据えた。これは現在の「立憲民主党」の原型でもある。

2010年【7月】参議院選挙

54→44議席に減少し、参院の過半数を失うねじれ状態に陥った。

 

2010年【9月】民主党代表選で菅・小沢が激突するが世論を味方につけた菅が勝利した。

 幹事長に岡田が再登板となり、閣僚からは小沢グループの議員は一掃された。

2011年【3月】東日本大震災が発生する。

2011年【6月】「菅首相では災害復旧と復興、原発事故の処理に対応できない」との理由で自民党などが提出する内閣不信任案に対し小沢に近い「民主党」議員50人余りが同調する意向を示したが、採決前に開かれた党代議士会で菅首相が辞意とも取れる発言をしたことで小沢グループは自主投票となり、不信任案は否決された。菅首相はその後、福島第一原発事故の対応にメドがつくまで続投する意欲を示したが、政府・党執行部からも菅首相への退陣要求が出始めた。

 

2011年【8月】菅首相が退陣を正式に表明したため、民主党代表選が行われ、野田佳彦・海江田万里・前原誠司・鹿野道彦・馬淵澄夫の5人が出馬した。代表選では小沢と鳩山のグループから支援を受けた海江田が先行し、前原と野田が追う展開となった。第一回投票では海江田が最多の143票を得るが過半数には至らず、野田との決選投票では前原・鹿野陣営の支持を集めた野田が勝利し、党代表に選出された。

2011年【8月】衆参両院の総理大臣選挙において野田首相が選任された。

野田は代表選挙当時から消費税率を現行の5%から10%に引上げる消費増税を掲げたが歳出削減が進んでないうえ、景気にも悪影響だとして小沢グループや連立を組む国民新党などから反対意見が噴出した。

その結果、離党が相次ぎ、2011年の間だけで民主党は14人の国会議員を失うことになった。

連立を組む「国民新党」も「社会保障・税一体改革関連法案」が野田内閣で一方的に閣議決定された事で、連立離脱派と維持派が対立し、離脱派で代表の亀井静香らが離党する(金融・郵政改革担当大臣の自見庄三郎が代表となり連立維持)など、党内外で混乱を露呈する事態となった。

2012年【6月】「社会保障・税一体改革関連法案」の衆議院採決は民主党・国民新党・自民党・公明党・たちあがれ日本などの賛成多数で可決された。「消費増税法案」の採決では反対の意を表明していた鳩山、小沢以下57名が反対票を投じ、13名が棄権、2名が欠席(病欠した元首相の羽田孜を除く)するなど72名の造反者を党内から出した。

2012年【7月】野田は厳しく対峙したが、結局小沢含む55名の離党者を出す事になった。

2012年【8月】参議院採決が近づき、野田内閣不信任案が野党より提出されると、野田は自民・公明 両党と密約を交わして、不信任案を否決回避したが、民主党の世間の評価は下がり続けた。離党・除籍者にも歯止めがかからず、2012年【11月】野田内閣解散の発表までに民主党政権誕生以来103名の離党・除籍者を数え、民主党は両院で少数与党に転落した。

2012年【12月】衆議院解散総選挙

総選挙前に党の方針に賛成出来ず、党創設の功労者 鳩山由紀夫が、立候補を辞め政界を引退する。

選挙結果は、解散前の230議席を大きく下回る57議席(小選挙区27議席、比例30議席)と大きく後退。多くの閣僚や大臣経験者が落選した。野田は直ちに代表を辞任を発表した。

民主党の連立政権は1198日で終焉、内部抗争による瓦解であり、醜い結末となった。

 

野田の辞任を受けて民主党代表には「海江田万里」が就任した。

 

2013年【4月】参議院選

改選前44→17議席へと減らし非改選と合わせた参院議席数は59議席と第2党に転落した。また青森など13県では県連所属の国会議員がいなくなった。ただし、海江田体制は維持。

 

2015年【1月】衆議院選

党首海江田の落選による引責辞任で岡田が党代表に就任する。

 

2016年【3月】小政党の吸収を期に「民主党」から「民進党」に党名変更が行われた。

以後、下記のように分裂する。

2017年【9月】前原ら「希望の党」へ合流するグループ

2017年【10月】枝野ら「立憲民主党」へ分裂するグループ

2018年【5月】残留し「国民民主党」への党名変更に参加するグループ

 

55年体制に終止符を打ち、二大政党制を実現する事を目指して「自民党」に対抗しうる政治勢力の構築にエネルギーを傾けた政治家がいた。彼らの運動は1993年「細川内閣」

2009年「鳩山内閣」を生みもしたが、本来の目的である

「政党間での切磋琢磨による、より良い国家運営」とは、かけ離れた内部分裂で瓦解してしまう。

 

2012年に政権政党から陥落すると、その後6年間をかけて

分裂と再生の末に、新たな新党群となった。

その間、自民党安倍政権は野党不在ともいうべき、特殊な状況下で、能力に見合わない、かつてない長期政権を続けている。これは日本国にとって非常に不幸で痛ましい災難であるが、多くの国民は他人事でいかに危険な状態であるのかをわかっていない。責任論を振りかざしても埒が明かない事だが、低俗なマスコミの責任は大きいと本当に思う。政治が機能しないこういう時こそマスコミが本来の役割を果たすべきなのに・・・「政治のお勉強」(後編)はここで終わり

「政治のお勉強」(追加)で第二次安倍内閣以降を取り上げる事にする。

私見もたっぷり書きたい!

 

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