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政治のお勉強(前編)

僕らが選挙に投票して、当選した議員が、僕らの代表となり、政策を議論決議する。

皆さんはピンと来ているのでしょうか?

僕は正直全くです・・・

ですから国民の権利であり、義務でもある僕らの代表を選ぶはずの選挙も足が重く、街中の看板や毎回送られてくるハガキすら「もったいない」と思ってしまいます。

 

いったい、この言葉にできない不満や不信感はなんなのでしょうか?

 

大久保利通は「100年先の日本国のすがた」を語り「廃藩置県」を断行しました。

「大政奉還」により、すでに江戸幕府は役目を返上していましたから、公卿衆と薩摩藩・長州藩に代表される倒幕に参加した藩の士族を中心に「新しい国造りの政」が急ピッチで進められていました。「廃藩置県」により、既得権益を突然失う事になった士族の一部は「おのが言い分を貫き」武力反乱をおこしましたが、やがて多くの士族は、なすがままの自然体を受け入れ、古来より受け継がれた「和の精神」に立ち返り、生きていく道を選ぶのです。これすなわち「国意」であると僕は思います。

ある時から、日本は「国意」を失い、各々の私利私欲のみが事情や都合として優先されるようになりました。本来であれば、指導者たる国政の担い手こそが、「国意」を理解して「丸い正道を貫くべき」と思うのですが、その時々の事象に振り回され、いびつな都合主義で事に対処してしまう・・・結果、民心から離れた政となり、瓦解につながるのです。僕は、かねてから 人口問題の大失策(実際には策さえ持たなかった)について批判をしてきましたが、これも日本国としての「国意」の問題です。何故、こんな「政治」になってしまったのかを少し掘り下げて検証したいと思います。

「政党」について

政党がなぜ必要なのか? 疑問ですね~

検証してみましょう!

「政党」とは?

政治において政策や主張に共通点のある者同士が集まって、意見の集約と統一された政策の形成を図り、政策の実現に向けての活動として、政権を担当もしくは目標とし、議会の運営の基本単位になるなどを行う組織または団体のことを指します。

「同じ意見の集団」が原則で、政策を分かり易く表明するのは「政党」の役割で、有権者は支持する「政党」を選び投票する。となっていますが・・・

批判的な結論を急ぐ前に、これまでの歴史を振り返ってみましょう。

政党の組織形態は社会における利害の対立のあり方によって大きく変わります。

始まりは、「制限選挙下」で同質性の高い有権者が対象であった為に政策面の対立というよりは、人間関係による分立が要因であり、限られた階級の政治家と有権者による 名望家政党が最初でありました。

「普通選挙制」の採用で新たに有権者となった大衆の支持を得る為に「いかに利害の対立を調整するか?」「それぞれの利害をどの程度満足させうるのか!」について選挙に際して各政党は「政綱(網領)」を明らかする事が大きな任務となります。

広範な支持を得ようとすれば政綱 (網領)  作成にあたって、多数の利害を考慮に入れざるを得なくなり「利害共存をさせる見通し」を示す必要が出ます。こうして新たな有権者獲得と囲い込みの為、組織の全国化が広まる一方で、集団としての一体性を確保する為に中央の官僚化が進み、それと共に党員統制も強まって、所属議員は、党の決定に服従する事を要求されるようになるのです。こうした普通選挙制への移行に伴う政党変化は大衆政党への転換であり、その成立は「異質な諸利害を組織しつつ、政府と社会を結び付ける役割を担う」今日の政党の出発点であると思います。

では、以上を踏まえて現在の政党を簡単に見てみましょう。

まずは「自民党」

1955年に結党して以来、2019年までの64年間の歴史で、55年間政権を握っています。全く異常な結果ですがこれも選挙の結果なのです。詳しくは、後記にして 結党の背景だけさらりとご紹介します。

 【55年体制】と呼ばれる

当時、日本はGHQによる占領下で、国際的にはアメリカとソビエトが主導する冷戦の真っ只中でした。日本においても、政界の再編が進み、1955年(昭和30年)に分裂していた社会党の右派と左派が再統一します。これに危機感をもった財界など保守勢力の呼びかけにより日本民主党と自由党が保守合同して自由民主党が誕生します。議席は自民が2/3、社会が1/3、見かけは二大政党制でしたが最初から長所である政権交代の円滑化に資する体制ではありませんでした。1958年(昭和33年)総選挙では 互いに、過半数を超える候補者を立て、真っ向から争いました。投票率は76.99% 男女普通選挙の最高記録であり、その結果は、定数467に対し自民287(他、追加公認 11) 社会166(他、追加公認 1)となり、大きく変わる事はなかったのです。以降は改憲に必要な2/3以上の獲得が攻防のラインとなり、政権交代と憲法改正が無い政治体制として続く事になります。

【自由民主党】は後半につづく

2017年10月 結党宣言 「政治家にとって理念や政策は何ものにも代えがたい、譲ってはならない筋である」

前身である「民進党」が2017年総選挙で、小池百合子率いる「希望の党」と合流する事になり、議席獲得を優先する余り、理念や政策をないがしろにした党政策に反対し、枝野幸男らが結党を宣言した。

第48回衆議院議員選挙では、前職15人全員を含む78人が立候補し、結果は 小選挙区 18(追加公認 1含む)比例代表 37 合計55議席 野党第一党に躍進した。

2019年1月国民+自由 立憲+社民の会派結成が合意

公式Twitterのフォロワー数は国政政党において最多の19万人以上(自民党は15万人)

結成して間もない政党だが、今後の成長が期待されている。

 

民進党と希望の党が合流して出来た政党 2018年5月 結党

結党時で衆議院議員39人参議院議員23人計62人となり、  立憲民主党(63人)ついで野党第二党であった。

その後も、立憲民主党への議員移籍などで勢力差が拡がるが2019年1月に玉木党代表と自由党の小沢代表の会談が持たれ

衆参両院で統一会派結成が合意され、その後、4月に自由党が解党し国民民主党に合流する。山本太郎議員を除く6名の衆参両院議員も移籍合流した。

合流に反対する勢力の離党の動きは今後もしばらくは続きそうである。

【「会派」ってなに?】

現役議員の集まり(グループ)の事、国会だけでなく市議や県議にも存在します。政策を同じくする者が党の枠組みを超えて結成することも可能で、本来の目的は議会運営をスムーズに行う事です。あくまで各議員が任意に作る集合体なのですが、会派には議会内において一定の権限や役割が与えられており、その勢力(構成員の数)によって委員会の委員や理事のポスト(議席)が割り当てられます。また、国会議員については「立法事務費」という名目で、会派ごとに一人月額65万円の用途を問わない金が国費から支給されています。

 

「政党」は院外の私的団体 対し 「会派」は院内での政策団体 という位置付けです。

支持基盤は、第二次世界大戦後に宗教法人として規模を拡大した、創価学会が1954年(昭和29年)政界選出を目的に創設した文化部が源流。翌年には首都圏の自治体議会選挙に候補者を擁立し合計53議席を獲得  翌1956年(昭和31年)には国政選挙に進出、3議席を獲得した。

政界進出の旗振り役は 二代会長 戸田城聖 と 三代会長 池田大作である。1960年(昭和35年)池田が会長就任すると一気に加速 政治団体公明政治連盟を改組し人材排出を行う。1963年(昭和38年)の都議選では17議席を獲得、55年体制下で第三党に躍進する。

1964年(昭和39年)創価学会から公明政治連盟が切り離され独立 国政政党「公明党」が誕生した。

 1922年(大正11年)8人の仲間が集まり「第一次共産党」が結成された。メンバーには野坂参三、徳田球一など。

同年にコミンテルン(共産党インターナショナル)加盟

日本共産党は設立当初より「君主制廃止」「土地の農民への引き渡し」などを要求した為、治安立法により非合法活動という形で行動せざるを得なかった。幹部の亡命や検挙により、活動が困難になり1924年に一時解散するが1926年再結成される。「第二次共産党」

当時はコミンテルン指導の下で非合法の地下活動を展開しながら労働組合などの合法活動に顔を出して運動を支えた。1928年三・一五事件1600人一斉検挙 1929年四・一六事件1000人一斉検挙 などの弾圧をうけ、同年右翼団体による共産党推薦議員の刺殺事件などに抵抗し暴発事件もおきた。1931年「満州事変」などの日本軍の戦闘行為に対して「断固反対」を主張した。高等警察はスパイを送り込み監視を強め、工作により日本共産党のイメージを悪化させる犯罪などを偽装したりもした。スパイM(飯塚盈延)は有名である。

1935年(昭和10年)獄外で活動していた国内ただひとりの中央委員が逮捕されると統一的な活動は不可能となった。戦時中もコミンテルンの動きに呼応して野坂参三は亡命先から呼びかけを行うが、党組織は壊滅しており行動には至らなかった。

1945年(昭和20年)敗戦から2か月後フランス人ジャーナリストによって発見され府中刑務所より出獄を果たした徳田球一を書記長として合法政党日本共産党が再建される。 1946年の総選挙では5議席を獲得した。GHQによって解放され、急速に勢力を拡大し学生運動・労働運動も活発に展開して、勢いにのる日本共産党であったが1947年(昭和22年)階級闘争高揚の中「吉田内閣打倒」を掲げた「二・一ゼネスト」を前日のマッカーサーからのゼネスト中止命令に従い断念、執行部は夜ラジオ放送で中止指令を発した。この敗北宣言は、戦後の労働運動の大きなつまずきとなった。

コミンフォルム(スターリンが作った共産主義諸国加盟組織)は戦後の日本共産党を批判 毛沢東の中国共産党も機関紙「人民日報」で批判を表明する。

主流派の掲げる 戦後の「平和革命論」は、批判の対象となり、共産主義諸国から突き上げられる形となったがGHQからは侵略に協力しているとして非合法化を検討の声明を出される。直後に、占領軍と日本共産党の支持勢力との間で大規模な衝突がおこりマッカーサーは共産党国会議員など24人にレッドパージ(公職追放・政治活動禁止)を指令した。レッドパージとその後の逮捕状を受けて徳田・野坂らは中央委員会を解体し、非合法活動に移行中国に亡命する。日本共産党は、コミンフォルムからの批判や、レッドパージ弾圧を受けて内部分裂、中でも武装闘争路線に走った行為は、国民の支持を得られず、1952年(昭和27年)総選挙では、公認候補が全員落選するなど、著しい衰退をまねいた。また、同年に制定された破壊活動防止法(破防法)の取締り機関である公安調査庁・公安警察は、発足当初から一貫して日本共産党を主要な調査監視対象としている。日本が主権を回復したことによりレッドパージは解除されたが、1953年徳田は北京で死亡する。1955年には中国的な「武装闘争路線を放棄」を決議し野坂参三を第一書記として「共産党再統一」を宣言した。1958年(昭和33年)からは宮本顕治が書記長(後に委員長)となり、これまでの武力闘争は反乱分子の行為で執行部とは関わり合いが無い事、これからは外国の干渉を受けない「自主独立の路線」でいく事を発表した。

1966年「文化大革命」時の中国共産党の揺さぶりも振り切り、北京に在中させていた代表も引き上げた。諸外国と距離をおいてから国際問題においての対応も明らかに変った。

1968年(昭和43年)プラハの春を制圧したチェコスロバキア侵攻ではソ連を明確に批判 1979年(昭和54年)アフガニスタン侵攻では、ソ連を批判、軍の撤退を要求した。 60年代半ばから70年代にかけて自主独立路線を確立し左翼武装派も廃絶した事で、党は徐々に支持を回復して勢力を長期的に広げていった。日本共産党は1972年衆議院議員選挙で38名の候補者が当選し、第三党に躍進する。1979年にピークを向かえるがその後、自民党や産経新聞の、ネガティブキャンペーンなどの影響で支持は落ち込む、共産党は、社会党との連立をイメージしていたが、社会党では「社・公・民」を重視する考えが大成を占め、民社党は反共を明言していたので80年代は「共産党排除」が野党の主流の動きとなった。

1991年(平成3年)ソ連が崩壊すると内部文書公開に合わせ、独自の調査団を派遣し、明らかになった事実を元に、ソ連派のスパイとして野坂参三を除名処分にした。

日本共産党は「ソ連崩壊を歓迎する」声明を発表するが、政府与党・社会党・他野党マスコミ からは、これまでの矛盾を指摘

攻撃され、弱体化が進んで、苦しい情勢が続いた。1993年(平成5年)衆院選で保守新3党(日本新党・新生党・新党さきがけ)

が大勝、日本新党 党首 細川護熙が総理大臣の自民党抜きの連立政権が発足すると、

細川内閣が推し進める「政治改革四法」には断固として反対するが、結局成立。これによって、日本共産党は不利な状況へと追い込まれた。

政治改革四法」

小選挙区比例代表並立制導入を柱とする公職選挙法改正案,政治資金規正法改正案,政党助成法案,衆院選挙区画定審議会設置法案の4法案を指した。

 

小選挙区比例代表制は、それまでの中選挙区から小選挙区に変わる事で一般には、広く有権者の民意が候補者の当選に反映されるとされたが大政党に有利にはたらき、共産党のような組織票を基盤とする政党には不利であった。

 

政治資金規正法改正案と政党助成法案はセットであり当時の政治献金汚職体質を改善する目的で企業・団体からの政治献金を規制する法案と、それに伴う政党財源の枯渇を補う、政党助成金(税金から捻出)を支給する法案であったが、これも個人の献金と事業収入が資金源である共産党は反対し、政党助成金は違法との立場から成立後も受取を拒否している。

 

元々は1991年海部内閣時、後藤田がまとめた原案が宮沢内閣を経て細川内閣に引き継がれたのだが、本来理念も政策も違う連立内閣は「自民党が成し遂げられなかった政治改革を成し遂げる」を唯一のスローガンとした。 この法案の成立は、確かに後に大きな影響を与える事になるが、 果たして国民の為になったのだろうか?・・・

小選挙区制の定着、総議員定数削減、国際情勢も絡み、国会における議席の減少、機関紙である「赤旗」の発行部数もピーク時の半分まで落ち込んだ。2000年(平成12年)不破にかわり志位和夫が委員長になり不破が宮本にかわり議長に就任した。2006年には不破が引退し市田が書記局長に就任「志位・市田」体制が固まった。

党内の選挙戦略の立て直しが進み、投票率回復、2013年(平成25年)参議院選挙では自民党への対決姿勢を明確にして大躍進を遂げる。2014年衆議院選挙でも、前回の2倍以上の21議席を獲得、2015年統一地方選挙でも大勝するが、その後は希望の党・立憲民主党の新党勢力に埋没する形で惨敗する。

前史は2012年 橋本徹と石原慎太郎の2枚看板でスタートした「日本維新の会」だが2014年「みんなの党」との合併を巡って両者が分裂し合併派が「維新の党」を結党した。2015年「大阪都構想」が住民投票で否決され執行部が交代されると民主党との丸ごと合併案を進める執行部と橋本・

松井らが対立離党し「おおさか維新の会」が結党した。「維新の党」は解党し民主党と合流「民進党」が結党された。

橋元は大阪府知事任期満了後に政界を引退し、いち民間人として「おおさか維新の会」の法律政策顧問に就任した。 その後2016年に「日本維新の会」に党名変更した。

【2019年7月21日第25回参議院選が行われます】参院の定数は、昨年7月の公職選挙法改正で6増えましたので総数248議席です。そして、参議院は3年ごとに半数が改選されるため、今回の改選議席は3議席増の124議席(選挙区74、比例区50)となります。選挙後の参院の議席数は245となります。

 

blog:日本の選挙制度を簡単に説明

 

【議席数と2019年参院選結果予想】

 

政党 衆議院 参議院 改選 立候補 予想

自民  285  122  067  082   057

立憲  055  024  009  042      022

国民  039  023  008  028      007

公明  029  025  011  024   014

共産  012  014  008  040      007

維新  011  013  007  022   007

他   004  005  004  101      006

無所属 030  011  003  031      004

欠   000  005  004

増減                 006        003

合計  465  248  124  370      124

1945年(昭和20年)非共産党系の合法社会主義勢力が団結する形で結党した「日本社会党」が前身であり、結党当初は右派(中間派)である「民主社会主義」と左派「マルクスレーニン主義的社会主義観」の勢力は拮抗していた。

戦後すぐには対立が激化し分裂と統一を繰り返す事に、そうした中の1951年(昭和26年)「青年よ銃を取るな」演説で「非武装中立論」を唱えた左派は党勢を伸ばした。

1955年(昭和30年)党再統一が叶うと「55年体制下」での二大政党制の一翼を担う政党として、1958年(昭和33年)までは選挙で健闘していた。1959年に右派が離党し「民社党」が結党した。1960年代は 都市部に人口の流入が激しくなり労働組合を支持基盤としていた「社会党」は本来ならば党勢を伸ばせるはずであったが停滞した。1970年代前半は脆弱な基盤の財政面(会派に支給される立法事務費を党の財政に回していた)が議席減により更に厳しくなり、党職員をリストラするまで追い込まれた。(ソビエト崩壊後の資料流出で支援を受けていた事が明るみに出た)「万年野党」の評価と自民党の永続的政権は、もはや有権者の前提となり、労働界においても自民党との協調を重視する流れが主流派となっていった。

1986年(昭和61年)衆参ダブル選挙でも大敗した社会党の委員長に土井たか子(日本初の女性党首)が就任すると土井個人の人気と「マドンナ」と呼ばれた 女性候補の積極擁立、「消費税導入」「リクルート事件」など世相も合わさり1989年参議院選挙では46議席を獲得、自民党は36議席しか獲得できず過半数割れにおいこまれた。1990年総選挙においても「土井ブーム」は続き、1960年代並の議席へ回復し「二大政党」へ発展できる最大の好機と言えた。

しかし、長年続いた消極策と財政悪化により、充分な候補者を擁立できず、政権交代まで自民党を追い詰める事が出来なかった。

1990年の「湾岸危機」で「自衛隊派遣問題」が政治課題になると「派遣反対の姿勢」で民社党・公明党との関係が冷え込み、労組合幹部との関係も悪化し土井体制は急速に求心力を低下させていった。1991年統一地方選挙で敗北すると責任をとって委員長を退いた。

1993年総選挙では新党ブームに埋没し議席を半減させ、土井時代に回復した議席を、ほぼ失う。細川内閣に連立与党として参加するも与党第一党でありながら総理大臣を排出できなかった。主要閣僚は新党に独占された。この時責任をとって辞任した山花に変わり村山富市が委員長に就任した。

細川退陣後、羽田政権が発足すると村山委員長は与党連立離脱を決める。1994年には政権奪還を目指す自民党と社会党・新党さきがけとの連立で村山政権が発足する。

連立政権与党となり、「安保条件肯定」「原発肯定」「自衛隊合憲」などこれまでの政策と180度の変更を一方的に宣言した事で社会党の求心力は大きく低下し、その後は解党を巡る論議が絶えなかった。1996年村山内閣退陣後「社会民主党」に改称した。

続く橋本内閣にも連立与党として参加した。「小選挙区比例代表並立制」の下で、本格的「二大政党制」に向けた「新党構想」が議論され鳩山兄弟・菅直人らにより「民主党」が誕生すると「社民党」は一度は丸ごと参加を決定するも、主張の違いを理由にすぐに撤回同年に「土井たか子」が委員長に復帰する。労働組合などの支持基盤が「民主党」に流れる中で「辻本清美」ら市民運動からの出身者を積極的に登用したが、衆議院の議席は15議席まで落ち込んだ。1998年連立政権から離脱

2001年には小泉政権人気のあおりを受けて惨敗すると旧執行部が退陣し、市民派が重要ポストに就く(幹事長:福島瑞穂、政審会長:辻元清美など)これ以後「自民党」への対決姿勢が強まる。女性議員の比率も増加し国会議員ではほぼ同数となった。

2003年衆議院選では「二大政党制」への気運から18→6へ議席を減らし、土井たか子は党首を引責辞任する。

党首には福島瑞穂が就任、幹事長に自治労出身の又一征治が就任し市民派(NPO)・労組を巻き込んだ新しい「社会民主運動」の模索を始める。2006年には「社会民主宣言」を採択。「自衛隊違憲縮小論」と任務別組織に改編して「非武装の日本を目指します」と宣言した。

2007年頃から自民党の支持率が低下し、2009年衆議院選挙で民主党が圧勝すると「国民新党」と共に、政策合意に基づく「民社国連立政権」に参加し、鳩山内閣において党首福島瑞穂の閣僚入りが決定した。また、辻本直美も大臣に就任 11年ぶりの与党復帰を果たした。

「普天間基地移設問題」では、かねてから党として主張していた「国外・県外への移設」を政権内でも強く主張し、「グアム移設案」へのプロジェクトチームを党として設置するなど、積極的かつ決意をもって「沖縄県民の民意に沿う」政策を主張したが結局、鳩山政権の答えは自公連立政権の時代に近い案をまとめ、福島に署名を求めた。

福島が拒否すると大臣を罷免 2010年連立解消となった。沖縄有権者への緊急世論調査では社民党支が10.2%でトップ 後の参議院選挙でも、比例での得票数こそトップだったが選挙区では自民党公認の再選が決まり社民党推薦は次点に甘んじた。この選挙後、辻元清美は民主党に移籍した。

社民党は、菅内閣への「与党復帰」は無いとしながらも、政権協力を表明した。2011年には小沢一郎(元民主党代表)の政治資金規正法違反の証人喚問をめぐる議論の際は、他党と歩調を合わせず自己主張を貫いた。 2012年 社民党の政策実現に疑問をもったとして阿部知子が離党し「日本未来の党」(生活の党)に移籍、その後の衆議院議員選挙では、新党乱立による埋没を回避出来ず、半減の2議席に2013年参議院選挙では与党の圧勝により1議席(比例代表で又一征治)のみ投票率も辛うじて2%を超え、2019年までの政党要件喪失を回避したが、福島瑞穂は引責辞任を表明した。

2014年の衆議院議員選挙では沖縄区での高い投票率の2議席に留まり、公選法ギリギリの両院議席数5を維持した。2016年参議院選挙では選挙区では全敗 比例区で2→1議席となり福島のみが当選し委員長である吉田は落選、結党以来はじめての党首落選となった。

総議席は5→4議席となったが、比例区の得票率が2%を超えた為、党としては2022年まで延命を果たした。2018年又一征治が委員長に就任 2019年には参議院で統一会派「立憲民主党・民友会・希望の会(社民)」を結成する。又一委員長は病気を理由に、改選の参議院不出馬を表明し委員長は任期まで務める事を発表した。

【自由民主党】つづき

結党以来「55年体制」と呼ばれた時代を経過した。

GHQ占領下で、結党直前の1954年から1964年まで アメリカ合衆国CIAの「反共政策」に基づく、支援を受けていた(自民党は否定)自民党とはそういう性格の政党である。政治の原則が「有権者の利害」という西欧風で日本においては短絡的にも感じられる解釈がまかり通る以上は、このような政党が舵取りをし続ける事もやむを得ないのだろう。しかし、「取り繕いや日和見では芯は腐り続ける」ある日突然、瓦解してしまうだろう。僕はそうした疑念を再確認するためにも書いているのだ。

1952年(昭和27年)第三次吉田茂内閣(自由党)の時に主権が回復した。「吉田茂」は日本を代表する政治家であり、彼の門下生には、佐藤栄作・池田勇人・田中角栄がいる。1954年に吉田内閣が総辞職すると「鳩山一郎」内閣(民主党)が成立 1955年第二次鳩山内閣の時に、保守合同で「自由民主党」が誕生した。

60年代安保の「岸信介」内閣から「所得倍増計画」の「池田勇人」内閣 次を引き継いだ「佐藤栄作」内閣は「人事の佐藤」とよばれ党内を掌握し、

1972年まで7年8か月の長期政権を実現した。

その間の政策は、「日韓基本条約」締結 「公害対策」実施 「沖縄返還」実現 などで選挙戦は毎回得票数を少しづつ減らす守りの選挙だったが全体としては安定していた。

1972年自民党総裁選は実力者4人が立候補「三角大福」と言われた。

「日本列島改造論」「日中国交正常化」を掲げた「田中角栄」が総裁に就任した。

田中内閣は高速道路・新幹線など公共事業増額の1973年予算編成をしたが、同年に「オイルショック」が起こりインフレーションが発生、日本経済は混乱した。

田中は素早く対応、ライバルで均衡財政を志向した「福田赳夫」を蔵相に任命し対応にあたらせた。福田は予算を圧縮、金融引き締めを本格的に行い、田中内閣は需要喚起政策から需要抑制政策へと政策転換していくようになった。1974年(昭和49年)戦後初の経済成長マイナスとなり、日本は高度経済成長期から安定成長期へと移行を遂げたのです。参議院選では過半数維持に留まり、金脈問題で田中は総理を辞任し「三木武夫」が総裁に就任 1976年「ロッキード事件」が発覚、河野洋平、山口敏夫らが離党し腐敗との決別をスローガンに「新自由クラブ」を結成した。同年、田中角栄は逮捕(東京地検特捜部)離党した。同年の総選挙で自民党は結党以来初めての「過半数割れ」(無所属議員の追加公認で過半数を確保)三木は総理総裁を引責辞任した。

福田赳夫が総理総裁に就任、1977年に自民党は党員党友参加による総裁選を導入し形だけではあるが全派閥を解散した。1978年 大平内閣が旧田中派の後押しを受けて成立。

1979年消費税導入を公約とした総選挙を戦ったが前回に続き過半数割れに終わり、大平は辞任要求に応じず、党内分裂に発展したが、第二次大平内閣の成立と共に一旦収束した。

1980年社会党による大平内閣不信任案提出による本会議を反主流派となっていた三木派、福田派の議員69名が欠席し、不信任案が可決され、史上初の「衆参同日選挙」となった。「ハプニング解散」と呼ばれた騒動である。

総選挙が公示された日に大平は心筋梗塞を起こし入院、選挙期間中に急死したが、自民党は勝利。衆参ともに過半数を維持した。これを受けて大平派の「鈴木善幸」が総理総裁に就任「和の政治」を掲げて、党内融和に尽力、行政改革に取り組んだ。

1982年の総裁選に鈴木善幸は立候補せず、「中曽根博康」「河本敏夫」「安倍晋太郎」「中川一郎」が立候補した。

党員党友参加の予備選挙で、中曽根が半数を超える票を獲得した為、各候補者が本選を辞退し、中曽根が総理総裁に就任した。中曽根は弱小派閥で党内基盤が脆弱だった為、田中派の力を借り、閣僚人事で優遇した為「田中曽根内閣」などと誹謗されたりもしたが政策では「戦後政治の総決算」を掲げ「行政改革」「公社民営化」「規制緩和」など 民間活力の活用に力をいれた。「教育改革」「国防」「靖国問題」などでは保守的言動が多く1983年のロナルド・レーガン大統領との会見では日米関係の強化と冷戦下での西側諸国としての立場を明確に表明した。1983年ロッキード判決で田中の有罪が確定すると田中は議員辞職を拒否(禊決着を希望)中曽根は衆議院を解散し総選挙となった。

結果は、過半数を追加公認で確保する常套手段で政権維持 「田中色を排除して党体質の抜本改革と清潔な党風を確立する」と総裁声明を発表した。

田中派【木曜クラブ】

1972年総裁就任と時を同じくして、佐藤栄作(佐藤派)の流れをくむ「七日会」が旗揚げされる。発足時から81名の大派閥でありロッキード事件時一人の脱落者出なかった。

「政治同友会」を経て、1980年「木曜クラブ」と派閥名が改められた。その後も拡大を続け、1984年には、118名の大所帯となった。 鈴木善幸、中曾根康弘、政権樹立 の原動力となり、総理・総裁を目指すには田中派の協力無しには不可能と言われていた。

 

会長:二階堂進 代表幹事:竹下登 運営局長:小沢一郎 広報担当:渡辺恒三

 

田中は自身の影響力低下を恐れ、田中派内から総理総裁を出す事を避けた為、竹下登 は抑圧され続けていた。1985年竹下を擁立する「創政会」が金丸信・橋本龍太郎・小沢一郎

梶山静六らによって結成された。当初は勉強会という名目を信じ容認していた田中だが、派中派と知るや憤慨して抑えつけた 直後、脳梗塞で倒れる。

田中が一線から退いた事で派内抗争が激化、二階堂は会長の立場を利用し自身が田中派の総裁候補であると発信。中立派・創政会に分裂した。1987年木曜クラブから120名が参加して竹下派(経世会)が旗揚げされ、木曜クラブの大派閥の地盤は竹下ー金丸ライン(経世会)に引き継がれる事になった。

1986年の衆参同日選挙でも、「自民党」は中曾根首相の指導下で盤石な結果を残し、任期満了に伴う1987年総裁選では、ニューリーダーと呼ばれた安部晋太郎・竹下登・宮澤喜一 3人が立候補したものの、かつてのような激しい抗争を嫌った3人は話合いの結果、候補者の一本化を中曾根に委ねた。裁定は竹下登 に下り、中曾根内閣は「日本電信電話公社」や「日本専売公社」民営化など、多くの政策を実現させた4年11ヵ月 の長期政権を終えた。(後にリクルート事件の証人喚問を受け 自民党離党)

 

1988年竹下内閣は「リクルート事件」で揺れていた。

消費税を含む、税制改革6法案は何とか成立したが、1989年には竹下は総理辞任を表明、リクルート事件には関係が無く、閣僚経験者である中曾根派の「宇野宗佑」が総理総裁に任命されるが、宇野内閣が発足した矢先に女性スキャンダルが発覚し、直後の参議院選ではリクルート事件、消費税問題、などの他にも「土井社会党のマドンナ旋風」が吹き荒れ自民党逆風で36議席の大惨敗となった。宇野は総理総裁を辞任 

総裁選には、海部俊樹・林義郎・石原慎太郎の3人が立候補したが、竹下派・旧中曾根派の支持に支えられ、海部俊樹が過半数を獲得し総理総裁に就任した。

海部内閣は 弱小、河野派の海部を経世会(竹下派)の金丸信、竹下登、小沢一郎が背後から操るという構造であり1991年「小選挙区制」導入の「政治改革法案」が提出されたが廃案を受けて次戦を辞退し退陣した。

1991年(平成3年)総裁選で宮澤喜一が勝利し72歳にして総理総裁に就任した。

ところが、1992年「東京佐川急便事件」で国民の政治不信は増大し、自民党の単独長期政権による金権体質が度々指摘されるようになる。(政治改革の必要性の世論)

金丸信の失脚(佐川急便事件による)による経世会の後継争いに敗れた小沢一郎・羽田孜は後継者 小渕恵三と袂を分ち 「羽田派」を結成する。

宮沢内閣も「政治改革法案」成立を目指すが廃案となる。

これに反発した「三塚派」「羽田派」などが自民党を大量離党し内閣不信任案が可決、国会が解散となって1993年(平成5年)の衆議院選、過半数には到底届かず保守3新党が大勝した。

非自民の連立政権が組まれ自民党は野党に転落する。宮沢は総裁を辞任した。総裁選では渡辺美智雄を破り河野洋平が就任した。野党に下ると離党し新党に移籍する者が増えた。

(つづく)

政界のドン「金丸信」

この人も佐藤栄作(佐藤派)の流れを組む1958年(昭和33年)山梨から自民党公認で国政に出馬、トラックの荷台を舞台とする選挙カーで選挙運動を展開(以後も選挙の際は同様の運動を展開)当選の同期には 竹下登・安倍晋太郎らがおり、竹下とは 親戚関係を結ぶ事になる。

周りが官僚出身の福田赳夫を応援する中で田中角栄の派閥づくりに奔走すると、田中に動きを評価され入閣(建設大臣)を果たす。

田中派(木曜クラブ)で権力をにぎると、以後の総裁指名の裏には、常に金丸信がいた。「冷や飯を食って耐え忍ぶ」という政治信念の教えから「政界の風見鶏」と言われていた立ち回り上手の中曾根康弘を特に嫌った金丸信も、親分田中の中曾根擁立の意向を受けると「おんぼろ神輿」と批判しながらも見事にやり遂げる。

中曾根政権下 総務会長ー幹事長ー副総理 と要職を歴任し重用された。

金丸信には「政治を若返らせる」「70歳80歳の派閥の長が政治を牛耳る時代は終わった」という思いが強く芽生えていた。やがて田中との関係悪化とクーデター(田中派内で竹下擁立を目指す創政会立ち上げ)につながっていくのである。

 田中が倒れると「創政会」を独立組織「経世会」とし、竹下の総裁就任後は会長に就任。

金丸信は「七奉行」の中でも特に小沢一郎に目をかけ、竹下の反対を押しきり最年少47歳で党幹事長に就けるなど小沢一郎の強力な後ろ盾となった。1991年総裁選でも当初は小沢を総理総裁に擁立するつもりでいたが、本人が固辞したので派内が人気の橋本龍太郎に傾く中で、小沢と協議し、他派の宮澤喜一を据える事にした。

金丸自身は東大出身者以外を露骨に見下す宮澤喜一が大嫌で渡辺美智雄押しだったというが、宮澤喜一の財界人気などを考慮して決めた。 宮澤政権では、副総裁に就任している。   長く、国会対策委員長を務め、社会党議員とのパイプも深く、政界全体を見渡していた。また木曜クラブ(田中派)時代から道路族(公共事業族)を自称し精通していた。

北朝鮮で金正日と会談(自由党 社会党 朝鮮労働党)で、戦後補償も含めた外交問題を話し合った。金丸・金正日会談は2人のみ日本語で行われたという この時の取決めは、文書も無く謎となっている。

【晩年】

金丸の幕引きとなった「佐川急便汚職事件」では事情聴取を求めた東京地方検察庁に対し政治資金規正法違反を認める上申書を提出。  事情聴取は行われず、略式起訴となり、東京簡易裁判所から罰金20万円の略式命令を受けた。この 検察・司法 の対応が波紋を呼び(5億円の賄賂に対し20万円の罰金) 検察・司法 共に、激しいバッシングを受けた。金丸は議員辞職 派閥も辞任する事になる。その後、妻の死去による「相続税脱税容疑」で逮捕、本人は最後まで刑事裁判を受けるつもりでいたが死去する。

(つづき)

非自民の連立政権は細川ー羽田と続いたが、長続きせずに連立政権内の不協和音が大きくなっていった。1994年(平成6年)自民党は社会党をそそのかし村山富市を首相に擁立し社会党・新党さきがけとの連立で与党へ返り咲く事に成功する。

1996年(平成8年)には自民党「橋本龍太郎」が首班となり、同年の総選挙では239議席と過半数には満たないものの復調を見せた。1998年(平成10年)には連立政権を解消し単独政権に戻ったが、同年の参議院選挙では、経済政策の失敗が響いて大敗する。橋本内閣は総辞職、後任を「小渕恵三」が務める。

小渕内閣は政権安定の為「小沢一郎」率いる「自由党」の政策を呑む形で「自自連立」を組み、その後「公明党」を加えた「自自公連立」を組みなおした。 2000年(平成12年)には自由党分裂と離脱を受けて、離脱組(保守党)連立「自公保」となる。 この頃から、公明党との保守連立が型造られた。 小渕が病に倒れると「森喜朗」が総理総裁に就任する。

ここいらで【前編】を終える。

【後編】の主人公達の画像で終わる。

お楽しみに!

 

 

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