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天皇(後編)

「天皇」を学ぶ事で日本という国の姿が、

もう少し見えてくるのではないか?

そう思ってはじめた。

 

「天皇」後編は、鎌倉時代からスタート 

「公家と武家」「朝廷と幕府」関係の始まりです。

皇族が臣籍降下の際、朝廷から姓を授かった事を、源氏も平氏も始祖としていますから大きな意味では同族です。とはいえ

「なぜ幕府は朝廷を滅ぼさなかったのか?」これが大きな疑問でした。

その辺りを学びたいと思います。

【歴代天皇系図】



第八十二代 後鳥羽(ゴトバ)  1183~1198  第八十三代 土御門(ツチミカド)  1198~1210

第八十四代 順徳(ジュントク)  1210~1221 第八十五代 仲恭(チュウキョウ)  1221~1221 

1185年

壇ノ浦の戦いで平氏滅亡

後白河上皇

頼朝に守護・地頭の設置任免を許可する。【鎌倉幕府成立

 

1192年

頼朝 征夷大将軍に任命の年、

66歳で後白河上皇:崩御

 

後白河上皇

鳥羽天皇の第四皇子として産まれ、異母弟である近衛天皇の急死によって、急きょ皇位継承する。

中継ぎ役のはずが、譲位後も、院政を続けて34年にわたり上皇(法皇)として君臨し続けた。

 

後白河院政が、自身の崩御により停止すると

実権は土御門通親(ツチミカドツ゚チチカ)が握り、1198年に後鳥羽天皇の譲位により、第一皇子(3歳)が土御門天皇として践祚します。

1202年に土御門通親が死去、後鳥羽上皇が院政を開始し、土御門一派を排除し、西面の武士を設置するなど、朝廷の力を強化して幕府に対抗しようと画策します。

穏和な兄の土御門天皇よりも気性が激しい弟が後鳥羽上皇の強い意向で、順徳天皇として即位(1210年)後鳥羽院政の反幕府体制が強化されます。

【北条氏と執権政治】

1199年に突然、源頼朝が亡くなる

嫡男源頼家が家督を継いだが実権は外戚の北条時政に移っていく事になります。

頼家が病弱のため弟、源実朝に家督が移ると北条時政執権に就き政務を仕切りますが実朝は暗殺されてしまいます。

源頼朝の直系が断絶して、困惑した幕府は正当性の維持を狙い朝廷に「親王将軍」を要求しますが、後鳥羽上皇はこれを拒否し朝廷と幕府の交わりを避けます。

 

1221年 遂に、悲願の朝廷の号令による 倒幕挙兵を行います。(承久の乱)

 

「北条義時討伐」の宣旨を全国に下し、武士の帰順を見込んだが、御家人の堅い結束を、奪う事は出来ず、朝廷はあっさり敗北します。

首謀者である後鳥羽上皇は隠岐へ流され、その地で一生を終える。

乱に関与していない土御門上皇も土佐に流されます。

同じく首謀者、順徳上皇は佐渡へ流され、即位して間もない仲恭天皇は廃帝となります。

 

かつてない厳しい制裁に朝廷の権威は失墜し、幕府は都に六波羅探題を置き朝廷を監視し、支配を強める事になります。

第八十六代 後堀川(ゴホリカワ)  1221~1232

第八十七代 四条(シジョウ)  1232~1242

第八十八代 後嵯峨(ゴサガ)  1242~1246

第八十九代 後深草(ゴフカクサ)  1246~1259

第九十代  亀山(カメヤマ)  1259~1274

 

幕府は、承久の乱の処分として

後鳥羽上皇の血統を皇位継承から根こそぎ排除しますが、その後、深刻な後継者の人材不足に陥ります。

 

苦肉の策として、 後鳥羽上皇の兄で すでに出家していた守貞親王の三男であり、まだ出家していなかった 茂仁王(ユタヒトオウ)を皇位継承者としてかつぎだし、仲恭天皇の廃帝の同日に践祚、後堀川天皇とさせます。

 

これはかなり強引な皇位継承で、守貞親王は源平合戦の際に平家と共に都落ちしており、それが原因で弟に皇位を移り、それから4代が経過していましたから茂仁王は親王ですらありませんでした。更に、後堀川天皇は10歳という若年での即位となった為、守貞親王が法皇として「後高倉院」を名乗り後見人になります。

 

天皇に即位した事のない後高倉法皇親王ではない後堀川天皇が誕生しました。

異例の皇位継承の後で、後堀川天皇の4歳の息子が四条天皇として即位しました。

後堀川上皇は院政を始めた矢先、23歳という若さで崩御 四条天皇も12歳という若年で、事故により突然亡くなり守貞親王の血統は断絶してしまいます。

これが後に後鳥羽上皇の怨念として語られる事となります。

 

その後もドタバタの皇位継承が続きます。

幕府と朝廷がもめた挙句に、後鳥羽上皇の血縁に戻るしかなく、幕府(北条泰時)の意向で承久の乱で罪が軽い、土御門天皇の第三皇子が後嵯峨天皇に即位します。

その後、わずか4歳の後深草天皇に譲位し院政を敷きます。

 

後嵯峨上皇は、病弱な兄:後深草天皇を無理やり譲位させ弟:亀山天皇を即位させます。

 

つぎの親王選定の際に後深草天皇系「持明院統」は考慮されず、亀山天皇系「大覚寺統」との間に大きな遺恨が残ります。これが南北朝分裂へとつながっていくのです。

第九十一代 後宇多(ゴウダ)  1274~1287   大覚寺統

第九十二代 伏見(フシミ)  1287~1298    持明院統

第九十三代 後伏見(ゴフシミ)  1298~1301  持明院統

第九十四代 後二条(ゴニジョウ)  1301~1308 大覚寺統

第九十五代 花園(ハナゾノ)  1308~1318   持明院統

第九十六代 後醍醐(ゴダイゴ)   1318~1339       大覚寺統

亀山天皇の子が後宇多天皇として即位すると、亀山上皇は幕府に反逆心を疑われるようになり、「持明院統と大覚寺統が交互に天皇に即位する」と取り決め、幕府主導のルールのもと、幕府の意向で持明院統の後深草院政と第二皇子の伏見天皇の即位が決定します。

その後、第一皇子の後伏見天皇へ譲位、伏見院政が敷かれます。

次は「大覚寺統」後宇多天皇の第一皇子の後二条天皇が即位すると、後伏見は出家して、後宇多上皇が院政を敷きました。

持明院統は後伏見の譲位が早すぎると不満を持ち皇位継承の確執は深まります。

伏見上皇の第三皇子「持明院統」が後二条天皇の皇太子になり、後二条天皇の崩御により花園天皇に即位します。同時に「大覚寺統」から後宇多上皇(法皇)の第二皇子が皇太子が選ばれ、10年後、花園天皇譲位により後醍醐天皇が即位します。

後醍醐天皇は

父:後宇多上皇(法皇)の遺言により最初から、  兄の後二条天皇の子息(邦良親王)が成人するまでの中継ぎとされ、自らの血筋による皇位継承の道も断たれていました。これが倒幕への堅い決意に結びつき、後宇多上皇の院政が停止すると「親政」を始めます。邦良親王には康仁親王も産まれ、皇位継承の機は熟していましたが、後醍醐天皇は居座り倒幕を画策します。

邦良親王が病で亡くなると、

持明院統の嫡子量仁親王が幕府の指名で皇太子に立てられて、後醍醐天皇 譲位への圧力が更に強まります。

倒幕計画が露呈し身に危険が迫ると、宮中より三種の神器を持ち去り、都をはなれ挙兵元弘の乱)しますが、幕府の圧倒的な武力の前に敗北、囚われの身になります。

幕府は

後醍醐天皇が都落ちした時点で量仁親王を光厳天皇として即位さていました。捕虜となった後醍醐は承久の乱の前例に従って謀反人とされ隠岐島に流されます。

 

しかし、倒幕の動きは、密かに進行していきます。

 

御醍醐の皇子である護良親王や武将楠木正成、赤松則村ら反幕府の勢力が各地で決起。

こうした情勢の中で隠岐島から脱出した後醍醐は仲間を得て再度挙兵します。

討伐の為に幕府より遣わされた足利尊氏は、御醍醐側に寝返り六波羅探題を攻略します。関東では新田義貞鎌倉を陥落させ北条氏の鎌倉幕府は滅亡するのです。

第九十七代  後村上(ゴムラカミ)  1339~1368

第九十八代  長慶(チョウケイ)  1368~1383

第九十九代  後亀山(ゴカメヤマ)  1383~1392

第百代    後小松(ゴコマツ)   1382~1412

後醍醐天皇は

帰京すると自らの退位と、光厳天皇の存在を、否定します。光厳朝で行われた人事を、すべて無効とすると共に幕府・摂関を廃して天皇中心の建武の新政を開始します。

「持明院統」のみならず「大覚寺統」皇位継承の人事も取消し、傍流であった、自分の血筋の恒良親王を皇太子に擁立して、父後宇多上皇の遺言を反故にし、自らの子孫による皇統独占を画策します。

 建武の新政に対し朝廷内外で不満の声があがり

後醍醐天皇は無能とされ、権威は失墜します。

 

後醍醐天皇は 

建武の新政から離反し光厳寄りの立場をとった足利尊氏の討伐を新田義貞に命じます。

楠木正成や北畠顕家も参加し、総力を上げて対峙し尊氏を破ります。

尊氏は九州に落ち延び、翌年には勢力をお立て直し、光厳上皇の院宣を得て、京都に攻め上がります。楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言しますが、退けられ その後、湊川の戦で破れ、正成は討ち死に、義貞は逃げかえる羽目になります。

尊氏が入京すると、後醍醐は比叡山に立て籠もり抵抗をつづけますが、足利氏からの和睦に応じ、廃帝し、三種の神器を差し出します。

足利尊氏は光厳上皇の院政の下で、持明院統から光明天皇を擁立し御成敗式目を制定して室町時代幕府を開設します。

廃帝後の後醍醐は幽閉先を抜け出し、吉野に移り、皇位の正当性を主張し南朝を開くと、尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、懐良親王を征西将軍に、任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王(後村上)を奥州へと、各地に自分の皇子を送って北朝勢力に対抗させようとしたが、時の劣勢を覆す事は出来ず、吉野へ戻っていた義良親王に譲位すると、1339年(南朝)後村上天皇が即位した翌日、朝敵討滅・京都奪回を遺言して崩御します。

 

後醍醐天皇という支柱を失い、幕府主導の北朝が優位に立ちます。

(1338年)皇太子・成良親王(後醍醐天皇の皇子)を廃して、光厳上皇の第一皇子益仁親王が皇太子となり(1348年)崇光天皇が即位します。光厳上皇の院政のもと花園天皇の子(光厳院の隠し子)で足利尊氏と血縁にある直仁親王が皇太子に押されます。

創世記の混乱が続く室町幕府では

兄:足利尊氏が 弟:直義を倒す事を優先して、北朝を南朝に降伏させた事により、一時的に征夷大将軍を解任され、

南朝も巻き込んだ大混乱がおきます。

1351年には、幕府の主導で南朝の年号に合わせる「正平統一」が行われましたが、翌年には(南朝)楠木正成らにより、京都を軍事占領される事件がおこり、「正平統一」は破綻し、南北朝の争いが再燃します。

北朝は京都を奪還しますが、1352年南朝は都落ちの際に 父:光厳上皇 叔父:光明上皇

兄:崇光天皇 及び、皇太子:直仁親王 を吉野に拉致連行します。

次期「天皇」「治天の君」と「三種の神器」を奪われた北朝は、かろうじて、難を逃れた光厳上皇の第三皇子:弥仁親王を光厳上皇の実母が任命する形をとって後光厳天皇に即位させます。 その後、南朝の勢力が弱まり講和へ傾くと、1357年3上皇と親王は解放されて京都に戻ります。 不測の事態で皇位を追われた崇光上皇と正当性の危い後光厳天皇の間には確執が産まれ、後光厳天皇が自らの子息に譲位し、1370年:後円隔天皇が即位 します。更に、後円融が幹仁皇子に譲位、1382年:後小松天皇が即位します。

南朝(吉野朝)は

幕府側(北朝)との争いで、弱体化が進む中、1368年後村上天皇が崩御します。

現在では、第九十八代 長慶天皇が即位し熙成(皇太弟)が東宮に任命されたとされており、1383年長慶天皇の譲位を受けて第九十九代後亀山天皇が即位します。

後醍醐天皇の子孫、宗良親王・懐良親王が相次いで世を去り、威勢を失った南朝と、足利幕府の後ろ盾で勢いのある北朝、穏健派の後亀山天皇即位は当然の選択といえます。1398年に、(南朝)後亀山天皇は、和平案を受諾(明徳の和約)して、「三種の神器」は京都の後小松天皇の御所に移されました。 ここに南北朝が統一される事となります。 

後円融上皇による院政は1393年の崩御により、実権を、室町幕府三代将軍の足利義満にとって代わられており、後小松天皇はその下で全くの傀儡に甘んじていました。

1412年に皇子の実仁親王に譲位し、称光天皇が即位します。

第百一代  称光(ショウコウ)  1412~1428

第百二代  後花園(ゴハナゾノ)  1428~1464

第百三代  後土御門(ゴツチミカド)  1464~1500

第百四代  後柏原(ゴカシワバラ)  1500~1526

第百五代  後奈良(ゴナラ)  1526~1557

1428年称光天皇が危篤となると、六代将軍足利義教の仲介もあり、後花園天皇が即位します。

これ以降、8親等以上離れた皇位継承は、行われていない。また、この系統が現在の皇室にも連らなるとされています。

家柄は崇光天皇の第一皇子(栄仁親王)  伏見宮の第一皇子であり、後小松院政が1433年崩御で終わると、以後30年間親政を続けたのちの1464年 第一皇子成仁親王に譲位。後土御門天皇が即位します。 

後花園上皇は、左大臣代将軍足利義政を院執事として院政を敷きました。

 

「応仁の乱」はこの時代におきます。

将軍義政は畠山氏の家督争いに介入しますが、どっちつかずの采配に、山名氏と細川氏が介入すると、それぞれに加担する守護が京都に集結し、将軍家の後継者争いも絡んで、 両派に別れた争いへと膨らんでいき、ついに1467年京都にて戦いの火ぶたが切られます。

争いは11年間も続き、終わった時には

京の都は焼け野原だったといいます。

 

後土御門天皇は乱を避けるため、

10年間も足利義政邸に避難し、

浮世離れした気楽な生活を送った

といいます。

争いの最中だというのに、将軍と天皇が

宴会で酒を飲みかわす事も度々。

応仁の乱終結後は、朝廷も幕府も財政が枯渇し儀式を行う費用も捻出出来ない程でした。

後土御門天皇は五回も譲位を見送られ、1500年 崩御するも、葬儀の費用が無い為に、40日間も御所に遺体が放置されたそうです。

第一皇子 後柏原天皇が即位するが、即位の礼が執り行えたのは、21年後であった。

1526年 崩御すると第二皇子の後奈良天皇が即位した。

即位の礼は10年後、北条・今川・朝倉・大内など戦国大名の献金により執り行えた。

【戦国時代】

1467年~1477年 応仁の乱 以降、

足利将軍家の室町幕府と、天皇と公家の 朝廷、中央の権威は地に落ちこれまで地方は守護の支配下にあったが古い権威は否定され、領国の統治は各々の才覚によるものとなり下剋上の世となったのです。

根本には、一部の階級 (貴族・武家・寺院)などが支配をしていた世の中が解放されて庶民のものになったという事で、町民文化地方経済が急速に発展しました。


室町幕府と将軍家は形ばかり残っていたが、中央政権の掌握は、足利氏から 細川氏へ、しばらく続き、その後 三好氏へと移り変わり、諸国では、守護にとってかわり、権力を掌握した戦国大名による自治統治が浸透していった。

後柏原天皇、あとをついだ後奈良天皇も仏教に帰依し、般若心経を自ら写本し奉納するなど、皇室と民の復興を祈願する天皇として責任感をもった行いの軌跡が残されている。

1557年 後奈良天皇崩御により、第一皇子が正親町天皇として即位 戦国大名 毛利元就の献金を受けて即位の礼を行いました。

誰もが自分の権力の正当性の後ろ盾として、朝廷の権威を利用しようと考えました。

戦国大名だけでなく、本願寺の顕如からも莫大な献金が流れていたといいます。

第百六代  正親町(オオギマチ)  1557~1586

第百七代  後陽成(ゴヨウゼイ)  1586~1611

織田信長

応仁の乱終結から57年後、1534年尾張国

に生まれ、1568年34歳で足利義昭を奉じて上洛、足利義昭を15代将軍に据える。

正親町天皇を保護する」という大義名分により京都を制圧した後に、色々な政策や自身の援助で、朝廷の財政を立て直して、朝廷の権威を、自らの天下布武に利用したのである。

1573年ごろから、正親町天皇は信長から誠仁親王への譲位を迫られるようになり、

頑なに拒んでいたという、織田信長の暗殺

1582年「本能寺の変」に朝廷関与が囁かれるのも、こうした事情による。

後をついだ羽柴秀吉は1585年に正親町天皇より関白に任じられ翌年には豊臣の姓を授かる

秀吉は信長より、朝廷の権威を利用する政策をも引き継いだ。

1586年 正親町天皇は孫に譲位して

後陽成天皇が即位した。

 

1588年 足利義昭豊臣秀吉を伴い参内し征夷大将軍の職を朝廷に返上したことで、室町幕府は滅亡した。

同年 秀吉の演出で天皇の聚楽帝(ジュラクテイ)行幸が華々しく行われる。豊臣政権の実質的成立を世に知らしめる狙いだった。

 

1592年 秀吉は朝鮮出兵を開始する。

秀吉の構想では、明の皇帝に後陽成天皇を据える征服王朝案だったというが、天皇は反対であり「無体な所業である」と秀吉を諭している。秀吉との協調共生を重視し、朝廷の再建を進め公家に君臨した天皇だった。

後陽成天皇は

後継者についても、秀吉の勧めで第一皇子の良仁親王を皇位継承者としていたが、

1598年に秀吉が没する徳川家康の了承を 得て、強引に良仁親王を出家させたが、やはり、家康の意向で第三皇子の政仁親王を立てざるを得なかった。

1603年 徳川家康を征夷大将軍に任じて、 江戸幕府開かれると、朝廷に対する監視が厳しくなる。宮中での公家の乱脈ぶりが事件となり、厳罰を求めた天皇が逆に宮中で孤立するという皮肉な形となった。

家康の介入により選んだ政仁親王に譲位し

1611年後水尾天皇が即位する。

後陽成上皇は譲位後も周りとはそりが合わず父子の間は長く不和であったと伝わる。

1614年「大阪冬の陣」が開始されるとすぐに後陽成上皇は、家康に和議を勧告するが、 家康は朝廷の介入を許さず、

あくまで徳川家が主導で交渉が勧められた。

第百八代  後水尾(ゴミズノオ)  1611~1629

第百九代  明正(メイショウ)  1629~1643

第百十代  後光明(ゴコウミョウ)  1643~1654

第百十一代 後西(ゴサイ)  1654~1663

第百十二代 霊元(レイゲン) 1663~1687

第百十三代 東山(ヒガシヤマ)  1687~1709

幕府は

1613年「公家諸法度」1615年「禁中並公家諸法度」を発布し、朝廷の行動の全般が京都所司代を通じて幕府の管理下におかれその運営も摂政・関白があたるものとされその他の公卿や上皇は、政策決定過程から排除されるようになるのです。

 

後水尾天皇に大御所家康の孫和子が入内(1620年)すると1625年には高仁親王が誕生する。 翌年には、二条城への行幸が行われ、2代将軍秀忠と3代将軍となる家光が上洛、拝謁した。

天皇の権威をおとしめる江戸幕府の振舞いが続き、天皇は耐えかねて幕府に断りも無く、次女に譲位1629年明正天皇が即位する。後水尾上皇(法皇)は以後4代の後見人として院政を敷くことになる。院政は御法度であったが、三代将軍家光は1634年渋々これを認めた。1680年85歳で崩御 それまで(神話の時代を除き)最長寿の記録であった。

明正天皇は859年ぶりの女帝である。

異母弟に譲位、1634年後光明天皇が即位する。1654年崩御 後西天皇が即位するが次期天皇の元服までのつなぎであった。

1663年後霊元天皇が即位する。10歳での即位だったが、治世の最初は後水尾法皇の院政下だった。崩御後は親政を行った。

1687年 譲位 東山天皇が即位した。 後霊元上皇は後水尾法皇に続いて院政を敷いた。当初、幕府はこれを阻止しようとしたが

後霊元はこれを無視、1694年に東山天皇が親政を開始し幕府との関係改善を図った。

五代将軍綱吉は皇室を敬った。時期将軍の家宣も公卿近衛家の娘婿に辺り、幕府との良好な関係は続いた。家康、秀忠によって奪われた朝廷の権限を、少しづつ幕府の譲歩を引き出し取り戻した時代だった。

1701年赤穂浪士の忠臣蔵はこの時代の実話である。

第百十四代 中御門(ナカミカド)  1709~1735

第百十五代 桜町(サクラマチ)  1735~1747

第百十六代 桃園(モモゾノ)  1747~1762

第百十七代 後桜町(ゴサクラマチ)  1762~1770

第百十八代 後桃園(ゴモモゾノ)  1770~1779

第百十九代 光格(コウカク)  1779~1817

第百二十代 仁孝(ニンコウ)  1817~1846

1709年 中御門天皇が即位する。

9歳だった為、父:東山上皇 続いて祖父の御霊元上皇が院政を行った。八代将軍の吉宗が輸入した象の拝謁を祖父御霊元上皇と受けたのは有名な話し。

 

1735年譲位 桜町天皇が即位する。

八代将軍 吉宗の助力で朝廷の儀式復古に力をいれた。1747年に譲位して院政を開始

桃園天皇が即位 1762年崩御

後桜町天皇が即位する

女帝で桃園天皇の皇子が5歳という若さだった為、中継ぎとして擁立された。

1770年甥に譲位 後桃園天皇が即位した。

1779年崩御 光格天皇が即位 実際には空位を避けるため崩御が隠され養子縁組された。

1817年譲位 仁孝天皇が即位

第百二十一代 孝明(コウメイ)  1846~1866

第百二十二代 明治(メイジ)  1867~1912

第百二十三代 大正(タイショウ)  1912~1926

第百二十四代 昭和(ショウワ)  1926~1989

第百二十五代 平成(ヘイセイ)  1989~2019

第百二十六代 今上天皇   2019~

1846年仁孝天皇が崩御 孝明天皇が践祚した。

孝明天皇の時代、鎖国を止めて広く開国する動きが始まります。

1854年日米和親条約が締結される

1858年日米修好通商条約の調印

幕府は黒船との交渉当事者として「開国止む無し」

朝廷は「開国認めない」の立場でしたが、幕府は、遂に勅許無しに条約調印に踏切ます。  孝明天皇は憤慨し、譲位の意思を朝廷、幕府に示したが認められず、続いてロシア・イギリスと勅許の無い通商条約の締結が続きます。

九条関白(九条尚忠)という人がいます。

この時代の朝廷と幕府のつなぎ役であったが開国派であり、勅許を求めました。 孝明天皇は激怒し、事実上の定職処分にしたといいます。

その後、幕府の圧力で九条関白は復権します。

保守の姿勢を崩さない天皇の姿勢に痺れを切らした諸外国が1865年大阪湾に艦隊を入れると孝明天皇は事態の深刻さを悟り、勅許を認めました。

晩年は、大久保利通や西郷隆盛 岩倉具視などにとっても悩みの種となったようです。1867年に在位21年、35歳で崩御します。天然痘とされますが他殺説も強く存在します。

最後まで「公武合体」と「鎖国」の姿勢を曲げず保守を貫きます。

明治天皇は孝明の第二皇子1860年に親王宣下、孝明の崩御により1867年1月14歳で践祚翌年元服し即位の礼を執り行う。

 

践祚間もない頃から、薩摩藩を中心に「倒幕論」が形成され

幕府、討幕派、それぞれの朝廷工作が始まります。

薩長藩の倒幕密勅を察知した一五代征夷大将軍 徳川慶喜

1867年11月「大政奉還」を奏上し、翌日、明治天皇はこれを勅許します。これにより倒幕の大義名分は消滅し、無益な争いは最小限に回避されました。

王政復古の大号令の下1868年1月3日新政府樹立を宣言。

江戸(東京)への遷都が行われ1869年には天皇が、京都から正式に東京城(江戸城)に移ります。

1870年には大教宣布の詔を発し、国家神道と天皇の絶対化を推し進め、岩倉・大久保らは明治天皇を近代国家の主体的な君主として育成する為に、宮廷改革を行い旧習を廃して、天皇の親政体制への切り替えと君徳の涵養に尽くしました。

【国内政策】

1871年 廃藩置県を断行、中央集権の確立

1872年 太陽暦を導入

1873年「征韓論」を巡って政府内が混乱した時は 「西郷隆盛の朝鮮派遣を中止」させる勅旨を発し事態を収拾するなど重要な役割を果たす。西南戦争(西郷隆盛らがおこした日本最後の内戦)を鎮圧、自由民権運動へは1881年「国会開設の勅論」を発し、議会開設の時期を明示し運動の沈静化を図った。1869年に蝦夷地が北海道を編入、1879年に琉球王国を廃し沖縄として併合、奄美群島を編入している。1882年に軍人勅諭を発し、1884年からは立憲制に対応する諸制度の整備にあたり1889年ついに大日本帝国憲法を公布する。

1890年教育勅語は近代天皇制を支える臣民の道徳を説いた。

【海外政策】

1902年日英同盟など大国と条約を締結し、列強の一員となるべく国力(経済力・軍事力)増強を進めた。日本が初めて直面した近代戦争である日清戦争・日露戦争では大本営で直接指揮にあたった。1906年に日露戦争の功績で大英帝国の最高勲章であるガーター勲章を授与されている。

 日清戦争で獲得した台湾、日露戦争後は韓国併合による朝鮮領有や満州経営を進めて、西洋列強の植民地政策に倣った帝国政策を進めた。1911年には開国以来続いていた列強との不平等条約の改正を完了させ、名実ともに列強の仲間入りを果たす。

 

 1912年 59歳で崩御 生前、日常生活では質素を旨とし天皇の威厳の保持に努めた。

日本文化をこよなく愛した半面で、皇室ではタブーとされた食肉や牛乳を進んで食したり、西洋風に断髪して、国民に新しい生活のあり方を示した。教育については儒教を基本とするべき考えで、伊藤博文の欠点を「西洋好き」と評したりもした。

伊藤博文との関係は特に面白く、初代内閣総理大臣と初代宮内大臣を兼ねていた。

明治天皇に立憲国家建設への理解を求め、内閣の要請がない限り天皇は議会に参加しない約束を取り付け、天皇親政の可能性を自ら放棄させた。1901年伊藤博文が内閣総理大臣の辞表を提出した際には「卿等は辞表を出せば済むも、朕は辞表は出されず」と述べた。

実際に1889年に天皇の退位禁止が明文化されていた。

この人物が「水戸黄門」としても知られる第二代水戸藩主 徳川光圀 です。

江戸時代の人で、家康の孫にあたる彼は「大日本史」と呼ばれる修史事業に着手し、古典研究を行いました。その中で、「南北朝時代」の南朝の正統性を主張し、後世まで大きな影響を与えました。

明治維新後

北朝正統としてきた公家朝廷派から、 水戸藩長州藩の影響を受け、南朝正統論を支持した維新の志士の明治政府に主導権が移り、1869年以降徐々に北朝から南朝へ編纂が行われます。 1911年には、国定教科書の記述をめぐって、読売新聞の批判記事をきっかけに世論を巻き込んだ大論争に発展します。帝国議会でも、南北朝問題(吉野朝)を議題に、辞職者を出すなど大揉め、明治天皇は事態に憂慮し最終的に「南朝正統論」決定します。しかし、宮中での祭祀では以降も北朝五代が祀られていたそうですが・・・

 これにより、大東亜戦争敗戦までは「南朝正統論」が主流となりました。

これまで紹介したように現天皇家は北朝の末裔です。 当然、明治天皇も・・・ご自身が南朝を正統と認めた事で後に「明治天皇入れ替わり説」なども囁かれます。

 

日本のイデオロギーの根幹には「皇国史観」があります。

「万世一系」の天皇による国家統治 というもので「古事記」「日本書紀」の神話とされる部分も歴史的事実とする事をひとつの特徴としています。

現在の考えでは現皇室と南朝正統論との間に矛盾は無いとされていますが「天皇の系統」に関わる「南北朝時代」の解釈はイデオロギーの根幹に触れる最重要テーマなのです。

大正天皇

明治天皇の第三皇子

明治天皇は皇后の間に子は無く5人の側室との間に、5男10女をもうけますが生存出来たのは1男4女だけであとは死産か早世しています。

この1男が大正天皇なのです。ご自身も、生来健康に恵まれず、重度な病気を患いました。

 

多く子息が脳膜炎を患っていたものと思われます。

江戸末期の将軍家の子息の多くも短命であり、原因は、この時代の女性化粧品「おしろい」ではないかと言われています。「おしろい」の白粉には、昭和初期まで、鉛や水銀が多く含まれていました。多くの胎児や幼児が、鉛中毒による脳膜炎を患っていた可能性が高いのです。

 

病弱な幼少時代を過ごし、重い後遺症障害の為、学習院に入学するも留年するなど学業は進まなかった。1889年10歳で皇太子 1900年21歳で結婚 皇后はこの時15歳であった。

早い結婚の理由は、病弱な皇太子の世継ぎを早く作る事に他ならなかった。

1912年明治天皇崩御を受けて33歳で第123代天皇を践祚「大正」と改元した。

この頃には後遺症はあるものの、病状はだいぶ回復していたというが翌年肺炎を患い1ヶ月寝込むなど、その後も度々体調を崩した。1917年(大正6年)頃から公務や心労が病の悪化に輪をかけて公務を病欠する事が多くなる。

1918年第一次世界大戦が終結し「戦勝国」としてアジア太平洋地域の自国権益を拡大し、国際連盟の常任理事国を得るなど日本の国際的地位は向上し 天皇としての公務も忙しさを増していた。

1921年(大正10年)

当時20歳となっていた 長兄 裕仁親王(後の昭和天皇)摂政に就く。

発表と同時に宮内庁から大正天皇の病状とこれまで出生以来の病歴が公表された。

これ以後天皇が公務に戻る事はなかった。

1926年(大正15年)大正天皇 崩御

 病弱ではあったが、側室を持たず、皇后との間に4皇男子をもうけた。

 

迪宮裕仁親王(みちのみや ひろひと)1901年(明治34年)- 1989年(昭和64年)

昭和天皇 

淳宮雍仁親王(あつのみや やすひと)1902年(明治35年)- 1953年(昭和28年)秩父宮

光宮宣仁親王(てるのみや のぶひと)1905年(明治38年)- 1987年(昭和62年)高松宮

澄宮崇仁親王(すみのみや たかひと)

1915年(大正4年)- 2016年(平成28年)

 三笠宮

昭和天皇は1901年明治34年に産まれた。名付けは明治天皇である。

この時の宮中祝宴で「万歳」を唱えたのが最初と言われています。

1916年大正5年15歳で皇太子になる。1921年大正10年20歳で摂政になった。

 

昭和の時代背景は

下記の記事を読んでください。

「昭和」①

「昭和」②

「昭和」番外編

 

昭和天皇の像については

下記をご一読ください。

 

天皇陛下が学習院初等科で学ばれた当時の院長は陸軍大将乃木将軍でした。

将軍は幼い迪宮に将来の「現人神」としての自覚を教えたと言われます。明治天皇が崩御された際には、参内し 皇太子となっていた迪宮に 訓戒と自ら写本した「中朝事実」(江戸時代の尊王思想の歴史書)を与えたという。

そして大喪の礼の当日、妻とともに殉死するのです。

 

辞世の句:「うつし世を 神去りましゝ 大君の みあと志たひて 我はゆくなり」

 

訳:「この現世を明治天皇は去ってしまった(崩御された)。明治天皇の後を慕って、私も死ぬとしよう。」 乃木将軍は日露戦争の際に多くの将兵を戦死させた事に責任を感じ明治天皇に切腹を申し出ていたが止められていた。崩御に際し後を追う道を選んだ。

皇太子は涙し「乃木院長が死なれた」「ああ 残念である」とつぶやいたといわれる。

「立憲君主」(君臨すれども統治せず)としての、行動に責任を持つことを常に心掛けていた昭和天皇だが、2度自らの意思で発言行動した事があると後に語っています。

 

【2.26事件】

若い陸軍士官の尊王派閥が、昭和維新を掲げて天皇親政を実現し政財界の腐敗や農村部の困窮を無くす目的で、1936年(昭和11年)2月26日武装決起するのだが・・・青年将校率いる決起隊(下士官1400余名)は政府機関を次々占拠、閣僚を襲撃した。

 

昭和天皇への一報は鈴木貫太郎夫人の「たか」からの直接電話だったという「たか」は皇孫御用掛として4歳から11年も仕えた間柄であり、陛下は大変信用していた。「とうとうやったか」「全く私の不徳と致すところだ」と述べられたという。

この一報の時から、青年将校のクーデター軍に対し「賊軍」という言葉を使用しており、陸軍相が反乱軍の「蹶起趣意書」(北一輝が書いたと言われる決起表明)を読み上げて状況説明を行った際も「なにゆえそのようなものを読み聞かせるのか?」「速ニ事件ヲ鎮圧」とせと命じられたといいます。  天皇が反乱軍の意思を全く問題にしていない事が明確になり、反乱将校たちを擁護し、鎮圧に消極的な軍部に対し「私が最も頼みとする大臣達を悉く倒すとは、真綿で我が首を締めるに等しい行為だ」「陸軍が躊躇するなら、私自身が直接近衛師団を率いて叛乱部隊の鎮圧に当たる」と強い意志を示されたという。

総理大臣以下、国政を担う機関が停止した中で「立憲君主」の枠組みを超えざるを得ない一幕であった。

最後の御前会議

日本政府はポツダム宣言受諾か、戦争続行かで意見が割れて、結論を出せずに時間が経過していました。その間にも原子爆弾が投下されるなど被害が拡大していましたが「一億玉砕」「本土決戦」を唱える声も、確かにあり、この時点でも戦争続行派は、多くいたのでした。

 

総理大臣 鈴木貫太郎は「かくなる上は陛下のご聖断しかない」との考えから御前会議を1945年(昭和20年)8月9日に召集します。  (鈴木貫太郎弁「御前会議を開くには、陸軍参謀総長、海軍々令部総長の同意を必要とします。両総長は政府及び軍の意見が統一しない限り、御前会議を開くべきではないといって同意が得られません。私は当惑しましたが遂に強引な手段を取りまして、半ば両総長をだますようにして二人の署名花押をとり、御前会議を開くこととしたのであります。」

本来ならば、御前会議において天皇が発言する事などあり得ません、政治不関与の観点から、ただの一言も発しないのが通例であり、政府決定事項の報告の場であった訳です。

【内閣書記官長迫水久常(さこみづひさつね)氏の戦後語りを 編集】

会議は夜十一時より、地下10mの宮中防空壕の1室で開かれました。

約2時間半意見が交わされましたが結論は出ません。陛下は熱心に耳を傾けていました。

 

総理:「本日は列席者一同熱心に意見を開陳致しましたが、只今まで意見はまとまりません。とかし事態は緊迫して居りまして全く遅延を許しません。誠に懼れ多いことでは御座いますが、ここに天皇陛下の御思召しをお伺いして、それによって私共の意見をまとめ度いと思います。」  驚く周りをよそに 陛下の前に進み出て、丁寧にお辞儀をして

 

総理:「只今お聞きの通りで御座います。何卒お思召しをお聞かせ下さいませ」

 

 天皇陛下:「それならば自分の意見を言おう」と仰せられて

     「自分の意見は外務大臣の意見に同意である」と仰せられました。

 

外務大臣の意見とは「ポツダム宣言受諾」である。

 

議場の 皆のむせび泣く声が響く中で天皇は続けます。

「念のため理由を言って居く」大東亜戦争が初まってから陸海軍のして来たことを見ると、どうも予定と結果が大変に違う場合が多い。今陸軍、海軍では先程も大臣、総長が申したように本土決戦の準備をして居り、勝つ自信があると申して居るが、自分はその点について心配している。先日参謀総長から九十九里浜の防備について話を聞いたが、実はその後侍従武官が実地に見て来ての話では、総長の話とは非常に違っていて、防備は殆んど出来ていないようである。又先日編成を終った或る師団の装備については、参謀総長から完了の旨の話を聞いたが、実は兵士に銃剣さえ行き渡って居らない有様である事が判った。このような状態で本土決戦に突入したらどうなるか、自分は非常に心配である。或は日本民族は皆死んでしまわなければならなくなるのではなかろうかと思う。そうなったらどうしてこの日本という国を子孫に伝えることが出来るか。自分の任務は祖先から受けついだこの日本を子孫に伝えることである。今日となっては一人でも多くの日本人に生き残っていて貰って、その人達が将来再び起ち上って貰う外に、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。それにこのまゝ戦を続けることは世界人類にとっても不幸なことである。自分は明治天皇の三国干渉の時のお心持も考え、自分のことはどうなっても構わない。堪え難きこと忍び難きことであるが、この戦争をやめる決心をした次第である。

陛下のお言葉は更に続きまして、

国民がよく今日まで戦ったこと、軍人の忠勇であったこと、戦死者戦傷者に対するお心持、又遺族の事更に外国に居住する日本人即ち今日の引揚者に対して又戦災に会った人に対して御仁慈の御言葉があり、一同は又新に号泣したのであります。

陛下のお言葉は終りました。・・・

 

会議の終了後に連合軍に日本国降伏の意向とポツダム宣言への解釈についての質問書が伝えられたといいます。  それを受けて連合軍側から回答が届きました。

 

14日11時 再度 天皇の呼びかけにより御前会議が召集されました。

それは、9日の決定を伝えたのちの連合軍からの回答について、「国体危うし」という意見から再度、対立が起きた為でした。

この場での陛下のお言葉は

「皆のものに意見がなければ自分が意見をいわう」

「自分の意見は先日申したのと変りはない、先方の回答もあれで満足してよいと思う」

そして陛下は玉砕を以って君国に殉んぜんとする国民の心持はよく判るが、ここで戦争をやめる外は日本を維持するの道はないということを、先日の御前会議と同じように懇々とおさとしになり、更に又皇軍将兵戦死者、戦傷者、遺族更に国民全般に御仁愛のお言葉があり、しばしば御頬を純白の手袋をはめたお手にて拭われました。

 

一同の感激はその極であります。椅子に腰かけているにのに堪えず、床にひざまずいて泣いている人もありました。

しかし私共を現実の敗戦の悲しみを超えて、寧ろ歓喜にひたらせたものはこの次に仰せられた陛下のお言葉で御座います。

陛下は

「こうして戦争をやめるのであるが、これから日本は再建しなければならない。それはむづかしいことであり、時間も長くかかるであろうが、それには国民が皆一つの家の者の心持になって努力すれば必ず出来るであろう。自分も国民と共に努力する。」と仰せられました。

陛下は更にお言葉をおつづけになり

一般の国民には、ラジオを通じて親ら(みづから)さとしてもよいと仰せられ、又内閣に於いて速かに終戦に関する詔勅の草案を作つて、手許に差し出すようにとのお言葉がございました。

これにて御前会議を終り閣僚は内閣に帰つて終戦の議を決定し更に終戦の御詔勅の草案を審議致しました。 

かくして内閣は終戦の詔勅を起草することになりましたが、実は終戦の詔勅は内閣に於て起草すべき性質のものでありましたから、私はその責任者として既に十日の夜から、十三日の夜まで夜半その起草に着して居りました。原稿用紙は涙のあとで一杯でした。即ち九日夜の御前会議の陛下のお言葉をそのまま文語体に改めたものであります。私の乏しい漢文の知識でまとめたものでありますので、通常の詔勅よりやさしいのであります。唯文法の誤りがあってはと思い、安岡正篤、竹田瑞穂先生に見て頂きました。有名な「万世の為に太平を開く」という文句は、安岡さんが支那の古典の中の成句を教え下さつたのでした。このものに十四日御前会議の陛下のお言葉によって、修正したものを議題として審議致したのであります。  午后八時審議を終了しそのまま陛下のお手許に差し出し、御嘉納がありまして一切の詔書公布の手続きを終了しましたのは、十四日午后十一時でありました。即ち大東亜戦争の公式終了の時間は昭和二十年八月十四日午后十一時であります。直ちに米国にポツダム宣言を受諾した旨電報致したのであります。

 

玉音放送はやはり、陛下自らの言葉を元に作られていました。

全文の内容は こちらで紹介 「昭和」②

1945年(昭和20年)9月27日

陛下はGHQ最高司令官ダグラスマッカーサーを尋ねる。 マッカーサーは天皇が命乞いに来たと思ったそうだが 陛下は「私は、国民が戦争遂行にあたって行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためお訪ねした」と述べられたそうです。 

その後のマッカーサーの天皇に対しての態度が、改められたのは言うまでもありません。

 

陛下は、敗戦の翌年から沖縄を除く46都道府県を8年かけて巡幸された。

 

国民に勇気と希望を与える事をなによりも望んでいた 陛下自身の勅書としていわゆる「人間宣言」を発表した際も 昭和天皇自身は「自分が神の子孫であること」を否定した文章を削除したうえで、自身の祖父である明治天皇が示した「五箇条の御誓文」の文言を詔書の冒頭部分に加筆して、自身の意思により「戦後民主主義は日本に元からある五箇条の御誓文に基づくものであること」を明確にしたとされる。この意味をその31年後の、1977年(昭和52年)8月23日の記者会見で振り返り『神格の放棄はあくまで二の次で、本来の目的は日本の民主主義が外国から持ち込まれた概念ではないことを示すことだ』『民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義は決して輸入のものではないということを示す必要があった。日本の国民が誇りを忘れては非常に具合が悪いと思って、誇りを忘れさせないためにあの宣言を考えたのです』と語った。

敗戦から1年が経過した1946年(昭和21年)8月

戦勝国であるアメリカの諸制度が導入されていく中にあって、昭和天皇は敗戦国の国民として打ちひしがれた日本人を励ますため、日本史上において対外戦争の敗北という点で共通した、白村江の戦い(天智2年8月/663年10月)の例を挙げ、「朝鮮半島に於ける敗戦の後、国内体制整備の為、天智天皇は大化の改新を断行され、その際思い切った唐制(律令制)の採用があった。これを範として今後大いに努力してもらいたし」と語った。

国民を励まし続け、凛とした姿勢を崩さずGHQ占領下にあっても国体を守り続けた昭和天皇であった。1988年(昭和63年) 9月 吐血され闘病生活に入ると日本全国が自粛ムードに包まれた。

1989年1月7日 崩御 88歳(歴代最高齢)

 

直ちに明仁皇太子が天皇に即位された。

翌日1月8日より「平成」に改元された。

明仁天皇(アキヒト)

1933年(昭和8年)12月23日 昭和天皇の5子にして初の皇子として生まれる。

1952年(昭和27年)皇太子 2年の交際を経て、1959年(昭和34年)美智子様との結婚の儀が執り行われた。

1960年(昭和35年)第一子第一皇子浩宮徳仁親王誕生 1965年(昭和40年)第二子第二皇子礼宮文仁親王が誕生 1969年(昭和44年)第三子第一女子紀宮清子内親王誕生

 

1989年昭和天皇の崩御を受けて55歳で天皇に即位する。

これを受けて1991年(平成3年)第一皇子徳仁親王が皇太子

1993年(平成5年)6月皇太子小和田雅子様との結婚の儀

 

2016年(平成28年)自身の考えとして、天皇として望ましい在り方を模索して今日に至ったが、高齢になったため、全身全霊で象徴としての務めを果たしていくことが難しくなってきたと案じていることへの国民の理解を求めた。これが譲位への意向として、その後には法整備など準備が勧められた。2019年(平成31年)4月30日退位の日と決められ、すべての権限は皇太子徳仁に受け継がれる事となった。

4月1日には新元号「令和」が発表された。

4月30日午後5時から国事行為として退位礼正殿の儀が皇居宮殿正殿松の間で行われ、これが天皇としての最後の公務となった。退位後5月1日 直ちに徳仁皇太子今生天皇に即位し明仁上皇が誕生 令和の時代の幕明けとなった。

明治時代に公布された『大日本帝国憲法』では万世一系の天皇が統治している国家である事、神聖であって冒してはならない事などが、第一条から第四条までうたわれています。現行の『日本国憲法』では

第一条

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

となっています。

 

立憲君主制を取り入れている国家の君主はすべて象徴的存在と言えます。日本の天皇制の特異な点は、『万世一系』である事 それは現行も同様です。あえていうなら現行は明治以前の天皇体制(鎌倉時代から江戸時代)に近いのではないかと思います。 付け加えて『象徴でしかない』点が非常に、難しいのではないかと思います。これまで学んできたように『天皇の力・存在』を時の権力者は利用し自らの『正当性』としました。昭和天皇は『立憲君主の立場にこだわり過ぎた為に、戦争を止める事が遅れてしまった。』と嘆かれた事があります。また逆に政治関与に及ぶとは思えないような『ささいな発言』で、内閣総理大臣が辞職するなどの事態に至ったケースもあり、その行動や発言は想像を絶するデリケートさであり、正解の無いクイズのようでもあります。法定義で天皇の権限を抑止する事で、為政者には利用されない、などという安易な理論で象徴天皇制を語る輩が多いですが、そんな事では無いと思います。明仁上皇が生前に譲位をご英断された背景には、昭和天皇崩御の際の社会情勢と同じような、負の側面(混乱)を懸念されての事ではないかと僕は思っています。平成から令和への切替はつつがなく平正の内に行われ、後は10月の「即位の礼」を待つばかりです。これはひとえに、明仁上皇の前例という壁を乗り越えるご英断の功績ではないでしょうか。 

 

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