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天皇(前編)

「天皇の系図」

初代神武天皇(紀元前660年)から数えて  第百二十六代今上天皇(2019年5月1日即位)

までを続く歴史をみていく。

初代神武天皇から第十代崇神天皇までは

伝説の域を出ないと言われている。

それは「古事記・日本書紀が史実に基づく

歴史書ではない」との考えが根強い為である。

初代  神武(ジンム)  BC660~BC585

第二代 綏靖(スイゼイ)  BC581~BC549

第三代 安寧(アンネイ)  BC549~BC511

第四代 懿徳(イトク)  BC510~BC477

第五代 孝昭(コウショウ)  BC475~BC393

第六代 孝安(コウアン)  BC392~BC291

第七代 孝霊(コウレイ)  BC290~BC215

第八代 孝元(コウゲン)  BC214~BC158

第九代 開化(カイカ)  BC158~BC98

第十代 崇神(スジン)  BC98~30

第十代 崇神(スジン)天皇  前97~30 が実は、3世紀~4世紀ごろに実在した大和朝廷で

最初の統一王朝を造った天皇ではないか? という説があります。

この説では、初代:神武天皇と第十代:崇神天皇は同一人物とされて、第二代から第九代までは実在しない(欠史八代)と考えられています。

第十一代 垂仁(スイニン) 第十二代 景行(ケイコウ) 第十三代 成務(セイム)

第十四代 仲哀(チュウアイ) 第十五代 応神(オウジン) ここまでを神話の世界

とする説もあり、これ以降を古墳時代としてひとつの区切りにしています。

第十六代 仁徳(ニントク) 313~399 は墳墓とされる前方後円墳が有名であるが発掘による裏付けがあるわけではない、都をそれまでの奈良 

から大阪(難波宮)に移したともされている。

 

第十七代 履中(リチュウ)  400~405

第十八代 反正(ハンゼイ)  406~410

第十九代 允恭(インギョウ)  412~453

第二十代 安康(アンコウ)  453~456

第二十一代 雄略(ユウリャク)  456~479

雄略天皇は考古学を根拠として実在を証明できる最初の天皇と言われています。 

「ワカタケルノミコト」

という名を耳にした事がある方も多いでだろう、雄略天皇の実名である。記紀では朝鮮半島を攻め滅ぼした大王とも、強大な専制国家の暴君とも描かれている。

埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣にその名が記されており、史実である可能性が高い事が推測されている。

第二十二代 清寧(セイネイ)  480~484 第二十三代 顕宗(ケンゾウ)  485~487

第二十四代 仁賢(ニンケン)  488~498 第二十五代 武烈(ブレツ)  498~506

ここまでは子息・兄弟に天皇が受け継がれてきましたが武烈には跡継ぎとなる子が無く、「ヤマトタケルノミコト」の孫である第十五代 応神(オウジン)天皇の五代あとで天皇家男系の血を受け継いだとされた 第二十六代 継体(ケイタイ)  507~531 が即位する。 当時主流の血筋から離れていた事もあり、即位後すぐに、先代の武烈天皇の姉にあたる 手白香皇女 (タシラカノヒメミコ)を皇后としたという。

古事記と日本書紀の記述に差異はあり、また日本書紀の系図一巻が失われている為、決めてになる史料にかける事で「王朝交代説」「継体天皇王朝説」が囁かれる。

第二十七代 安閑(アンカン)  531~535 第二十八代 宣化(センカ)  535~539

第二十九代 欽明(キンメイ)  539~571 第三十代 敏達(ビダツ)  572~585

第三十一代 用明(ヨウメイ)  585~587 と古墳時代が続きます。

用明(ヨウメイ)天皇は聖徳太子の実父である。

即位後わずか2年で崩御

その後、曽我氏と物部氏の権力闘争が激化します。

第三十二代 崇峻(スシュン)  587~592

は蘇我馬子によって暗殺されたとされており、

ここまでを古墳時代、以降を飛鳥時代と呼んでいます。

第三十三代 推古(スイコ)  592~628

初の女性天皇です。先代暗殺による、つなぎ役として即位したにもかかわらず、聡明で政治手腕に長けており長期政権を実現しました。聖徳太子を摂政として置いた事でも知られ、十七条憲法の制定や、冠位十二階など、天皇中心の中央集権国家の強化を、曽我氏との関係を保ちつつ進めた非常に優れた天皇でした。

第三十四代 舒明(ジョメイ)  629~641 第三十五代 皇極(コウギョク)  642~645

第三十六代 孝徳(コウトク)  645~654 第三十七代 斉明(サイメイ)  655~661

第三十八代 天智(テンチ) 天皇(中大兄皇子) 668~671 へと続きます。

皇極天皇も女性天皇で退位後、斉明天皇として重祚しました。661年に崩御しますが、皇太子であった中大兄皇子は、すぐに即位する事なく政務に励みます。

663年には朝鮮半島で友好国である百済を救う為に、新羅・唐の連合軍と争う事になり(白村江の戦い)

日本は大敗します。667年には大陸からの襲来に備えて、

大和から近江大津宮に遷都し、翌年668年に天智天皇として即位します。

645年の乙巳の変(大化の改新)で曽我氏を滅ぼしてから

23年が経過していました。

共に戦った中臣鎌足が亡くなると藤原氏を授け以後

藤原氏は長きにわたり繁栄を極めます。

第三十九代 弘文(コウブン)  671~672 第四十代 天武(テンム)  673~686

天武(テンム)天皇は舒明(ジョメイ)天皇の子であり、兄の天智(テンチ)天皇の元で、大海人皇子として、大いに政治を助け牽制をふるいましたが、671年に天智天皇の息子の大友皇子が最高冠位である「太政大臣」に就くと、一度は身を引き 出家して吉野に移ります。その後、天智天皇の死後に大友皇子が、弘文天皇として即位(即位について諸説有り)すると、大海人皇子は壬申の乱を起こします。

弘文天皇は争いに破れ自害を選び、大海人皇子は 天武天皇として即位します。

天皇の跡目争いを繰り広げ、先代天皇を自害に追い込んだ大海人皇子でしたが、天智天皇の治世を引き継ぎ、律令国家の礎をしっかりと固めた優秀な天皇でした。

第四十一代 持統(ジトウ) 690~697  第四十二代 文武(モンム)  697~707

持統天皇は女性天皇であった

政変の後に、ソフトランディングの つなぎ役として女性天皇をあてるのは皇室の知恵なのかもしれない。

 

文武天皇は祖母である持統天皇の寵愛を受けて育ち、藤原不比等(始祖 鎌足の次男)の娘を妃に迎え、701年 大宝律令  の制定など政治的手腕を発揮する。ここまでが飛鳥時代   次からが奈良時代 藤原氏の第一次黄金期である。

奈良時代最初は女性天皇

第四十三代 元明(ゲンメイ)  707~715 第四十四代 元正(ゲンショウ)  715~724

第四十五代 聖武(ショウム)  724~749

聖武天皇が建立した「東大寺(奈良の大仏)」は有名である。聖武天皇も藤原不比等の子、光明子を妃とし、729年初の人臣出身の皇后が誕生する。

 

第四十六代 孝謙(コウケン) 749~758

第四十七代 淳仁(ジュンニン) 758~764

第四十八代 称徳(ショウトク) 764~770

第四十九代 光仁(コウニン)  770~781

女性天皇 孝謙天皇も退位後、称徳天皇として重祚

奈良時代(707~781)

藤原京から平城京へ遷都が行われます。仏教の影響下、門前町としても栄えたが

庶民の経済は困窮し厳しいものだった。74年間の女性天皇は実に4人、33年間は女性天皇による統治の時代でした。

第五十代 桓武(カンム)  781~806

光仁天皇の子、天智天皇の孫として、藤原百川の後ろ盾で、皇太子になったが、母が渡来人の出身だった為、長く皇太子になれなかった。

781年に即位すると、現行の仏教勢力を避けて  784年  長岡京に遷都するが、 不吉な出来事が続いた為、わずか10年で 794年 平安京 に遷都します。 平安時代(781~1184)

これには父 光仁天皇の代から天智系の血統に戻った事も大きく影響したようで壬申の乱以降、続いた天武系の体制を払拭する事と、長きにわたり、肥大化した奈良の仏教勢力を抑える狙いで、遷都による重税に苦しむ、農民の負担を軽減する為、地方役人の不正を 取り締まり、監督を強化するなど善政を敷きました。

また、朝廷の支配を広げるため、征夷大将軍に坂上田村麻呂を任命し蝦夷地を攻めさせたのは有名な話です。

第五十一代 平城(ヘイセイ)  806~809 第五十二代 嵯峨(サガ)  809~823

第五十三代 淳和(ジュンナ)  823~833 第五十四代 仁明(ニンミョウ)  833~850

第五十五代 文徳(モントク)  850~858 第五十六代 清和(セイワ)  858~876

清和天皇は先代文徳天皇の第四皇子として生まれ

母が藤原良房の娘だった為、兄弟を超えて皇太子につき、わずか9歳で天皇に即位します。

脇には、母型の祖父で、すでに太政大臣に上り詰めていた藤原良房が摂政となり、政治を操ります。これが藤原氏による摂関政治の始まりと言われています。

清和天皇は27歳の若さで譲位し上皇になり、更に3年後、仏門に入ります。31歳の若さで亡くなるものの、清和天皇には沢山の皇子・皇女がいました。皇子の何人かが、朝廷より、「源氏」の姓を授かり臣下に降っています。 臣籍降下した「清和源氏」は以降、受け継がれ、その後しばらくして武家の棟梁の正当な血筋として歴史の表舞台に登場する事になるのです。

第五十七代 陽成(ヨウゼイ)  876~884 第五十八代 光孝(コウコウ)  884~887

第五十九代 宇多(ウダ)  887~897

 

陽成天皇も9歳で即位 藤原基経が摂政に就きます。

陽成天皇12歳 父清和上皇の早い死により「院政」が短く終わり、摂政:藤原基経にも、疎まれます。 15歳の頃、宮中で乳母が殴り殺される事件が起きると 疑いの中で、陽成天皇は藤原基経に無理やり、譲位を迫られ、その後65年間も実権無く、影に追いやられた生活をおくる事になります。

権力絶頂の藤原基経は

陽成天皇を追い込み、仁明天皇の第3皇子を第五十八代:光孝天皇に据えます。光孝天皇は藤原基経に恩義を感じ、政治委任を宣言したと伝えられています。更に自分の子を全員、臣籍降下させ皇位継承しないアピールをしました。 実際に、後継者問題が出ると、藤原基経は光孝天皇の第7皇子である源定省(ミナモトノサダミ)を推薦します。

そして、光孝天皇 臨終の間際に親王に復位、崩御の日に東宮に就き次代の宇多天皇として践祚します。

891年に藤原基経が死去すると、藤原氏を抑える動きが出ます。

宇多天皇は摂政・関白をおかず「親政」を敷き、菅原道真を徴用するなど、他の氏族を引き立てます。

猫好きで知られ、先帝から贈られた黒猫を大変かわいがった記録が、自身の日記に残ります。また、天皇としての心得を説くなど臣籍降下を経て即位した初の天皇として歴史に痕跡を残しています。

第六十代  醍醐(ダイゴ)  897~930              第六十一代 朱雀(スザク)  930~946

第六十二代 村上(ムラカミ)  946~967    第六十三代 冷泉(レイゼイ)  967~969

第六十四代 円融(エンユウ)  969~984    第六十五代 花山(カザン)  984~986

先代宇多天皇の第一皇子 醍醐天皇 即位後は、源善(ミナモトノヨシ)や菅原道真など先代ブレーンをそのまま徴用しますが、宇多上皇との確執を藤原時平(フジワラトキヒラ)につかれ、根も葉もない噂を元に、菅原道真を左遷してしまいます。

左遷から二年後、菅原道真は失意の中で亡くなります。 道真の死後、都では疫病や落雷など天変地異が続き「道真の祟り」と噂になります。藤原時平や皇太子が相次いで若くして死去し、醍醐天皇自身も、宮中での落雷をきっかけに、健康を害し亡くなります。

「道真の祟り」を鎮める為、北野天満宮天満天神として祀るようになります。

左遷の地である大宰府をはじめ全国に天満宮の信仰が広まり、道真は神となったのです。 

朱雀天皇は、先代の11皇子です。母は藤原時平の妹で「道真の祟り」を深く恐れており、外に出る事なく育てられたと言われています。わずか7歳で即位したのち、天災、反乱など、数々の災いに見舞われ、23歳で譲位 29歳で崩御しました。

 

桓武平氏:桓武天皇のひ孫:高望王が平氏の姓を与えら始まった一族で清和源氏と並び、武家棟梁の血統となりました。

 律令制の腐敗と限界

この頃の地方は「国司」という官職を、授かったものが、一定の税を中央に収めつつ、ほぼ自由に支配していました。 任期を守らず居座ったり、税率を勝手に変え、私腹を肥やすのは常であり、

争い事が絶えず、地方の治安は悪化します。

「国司」や「寺院」など権力者を中心にあらゆる勢力が武装を始めます。

 

935年:平将門の乱 936年:藤原純友の乱

平将門は国司の家柄にありながら内紛がきっかけで、関東8か国の国府を次々攻撃し国印を奪い制圧していきます。自ら「新皇」と名乗りを上げ、独自国家を目指したのです。

朝廷は征夷大将軍に藤原忠文を任命し討伐に向かわせます。結局、討伐軍が到着する前に藤原秀郷・平貞盛ら地元武士によって武装発起は鎮圧されます。

京都、七条河原町にさらされた将門の首は切り離された胴体を求め関東に飛び去り、現在の大手町辺りに落ちたとされ、「将門の首塚」が建てられたと言われています。

同じ頃、瀬戸内海では藤原純友が海賊を率いて反乱を起こしますが、こちらも源常 率いる 武士勢力の力によつて鎮圧されます。

第六十六代 一条(イチジョウ)  986~1011

第六十七代 三条(サンジョウ)  1011~1016

第六十八代 後一条(ゴイチジョウ)  1016~1036

第六十九代 後朱雀(ゴスザク)  1036~1045

第七十代  後冷泉(ゴレイゼン)  1045~1068

第七十一代 後三条(ゴサンジョウ)  1068~1072

一条天皇の時代に華やかな貴族文化が栄え、清少納言・紫式部など女流作家が才能を開花させました。 強大な権力者となり、政治を思いのままに操った藤原道長が世に出たタイミングでもあります。

 「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の

           欠けたることも なしと思へば」

意味は「この世は自分のためにあるようなものだ。望月(満月)のように足りないものは何もないと思えるから」という意味です。

後三条天皇は皇太子時代から、170年ぶりに藤原氏との外戚関係の無い存在として、冷遇されてきました。時の関白:藤原頼通は、娘寛子が天皇の子を産めず、後三条天皇が即位すると、ショックで関白の職を引退してしまいます。

これを契機に藤原氏の摂関政治が衰え、院政の時代へと移る事になります。

第七十二代 白川(シラカワ)  1072~1086 第七十三代 堀河(ホリカワ)  1086~1107

第七十四代 鳥羽(トバ)  1107~1123   第七十五代 崇徳(ストク)  1123~1141

白川天皇は18歳で即位します。32歳で譲位し、8歳の息子を堀川天皇として即位させ自分は上皇として院政を敷きます。後に、出家して法皇となり、崇徳天皇の時代まで約40年間、君臨し続けます。

白川上皇(法皇)の妖怪ぶりと鳥羽上皇の痛々しさは、NHK大河ドラマ 平清盛 で、丁寧に描かれていました。白川上皇 役の伊東四朗さんが、今も頭に甦ります。

ドラマでも取り上げられてましたが、警護機関として武士を集め「北面の武士」を組織した事で「平氏」台頭のきっかけとなります。公家の文化から武家の文化への転換点です。

第七十六代 近衛(コノエ)  1141~1155  第七十七代 後白河(ゴシラカワ)  1155~1158

第七十八代 二条(ニジョウ)  1158~1165 第七十九代 六条(ロクジョウ)  1165~1168

白川法皇が、21歳とまだまだ若い鳥羽天皇に無理やり譲位を迫り鳥羽の第1皇子でわずか5歳で崇徳天皇が即位します。  

崇徳天皇は、実は、白川法皇の隠し子である事は、周知でしたが、鳥羽は従うしか無く、遺恨を残します。

1129年にようやく白川法皇が崩御すると鳥羽上皇の復讐が始まります。崇徳天皇に自分の子を、養子縁組させ、天皇に据えるように勧めます。  崇徳天皇は自分が、院政を敷けるものと思い込み、鳥羽上皇の意向通り、わずか3歳で近衛天皇が即位します。

その宣命には皇太子では無く皇太弟と書かれていて、崇徳は子ではなく、弟に譲位した事になっていました。院政とは、父または祖父が現役天皇に代わって政治を行うことで、弟への譲位では実権は無いのです。だまされた崇徳上皇は鳥羽上皇の陰で耐え忍びます。 近衛天皇が17歳で跡継ぎも無く早世すると、崇徳上皇の同母弟が、空席を埋める形で後白河天皇として即位し、崇徳院政の夢は完全に断たれます。

1156年鳥羽上皇が崩御すると、朝廷内は実力者不在の中で、摂関家、平氏と源氏一門などの対抗勢力が、崇徳上皇派後白河天皇派に別れ争う保元の乱が起こります。

保元の乱

天皇家 兄弟争い と

藤原頼長と藤原忠通 摂関家の家督争い

更に、双方の警護について巻き込まれて、親族間で悲惨な争いを繰り広げる事になる源氏・平氏(武家)の戦いでした。

 

勝負は、後白河天皇派が源義朝と平清盛の夜襲により、先手を取り攻勢に出ます。

防戦一方の崇徳上皇派は源為朝の豪傑奮闘虚しく、敗走します。負傷した藤原頼長は父:忠実を頼りますが、摂関家を守るため、これを見捨て頼長は衰弱し力尽きます。

藤原頼長は秀才として名をはせましたが、悲惨な最期となります。

保元の乱の戦後処理は惨いものでした。

崇徳上皇派は尽く斬首 それも親族同士 清盛叔父の平忠正義朝父の為義の首を、自らの手ではねさせられたと伝えられます。

崇徳上皇自身も讃岐へ島流しになります。

保元の乱は、後白河天皇派のブレーンであった「信西入道」の暗躍の場でもありました。信西とは下級貴族の出ながら、藤原頼長と並ぶ、秀才として、後白河天皇との縁もあり、しだいに頭角を現します。

軍議の際に源義朝の夜襲案を「卑怯である」との声の多い中で採用し勝利に導いたのも信西と言われています。

後白河天皇派の主力部隊は源義朝 率いる源氏でした。平清盛(平氏)はあくまでサブ的な存在でしたが、この戦いが終わり、一番出世したのは平清盛と平氏一族でした。信西は自らのバックボーンとして平氏を育て、対抗勢力の源氏をおとしめる 自らの指針を決めました。

源義朝は、大した武功もない平清盛ばかりが出世していく様に悔しみます。

これが次の争いの火種となるのです。

1158年 後白河天皇は譲位し院政を敷きます。第一皇子が二条天皇として即位し、翌年 平治の乱 が勃発します。

 

信西は公正明大な政治を目指し、徹底した人でした。それまでの既得権益を侵されるなど、不満を持つ敵を多く作ります。

平治の乱

信西の警護役である平清盛の留守を狙って藤原信頼と源義朝が挙兵し、信西を殺戮、更に天皇と上皇を幽閉してしまいます。

 

清盛は京都に戻ると天皇と上皇を奪い返す事に成功、形勢逆転です。

藤原信頼を斬首 源義朝は逃げのびますが、尾張で殺されます。平氏は源氏を破り、更に力を着けていく事になるのです。この時、命を取らず許した、源頼朝や後に源義経となる牛若丸が立ちはだかるのは、まだ少し先のお話しです。

後白河上皇(法皇)は「いいかげん」二条天皇は「まじめ」双方の対立

後白河上皇(法皇)は、二条天皇の後見役の死につけこんで二条天皇の側近を次々と失脚させ、ついには自分の子を、皇太子の座に就けようと画策します。これ怒った二条天皇は院政の要人を解雇し、後白河院制を停止させます。

その後、二条天皇は病を理由に退位、二条天皇の第2皇子が六条天皇に即位します。

 

天皇家では正妻に祖孫が出来ない事は度々あります。だから母型の家系は、序列に大きく影響します。二条天皇の第一子は母親の身分から後継者と認められず僧侶となります。

六条天皇 自身も母は低い家柄だったそうですが、政治的な駆け引きに翻弄されて7か月で天皇に即位3歳3か月で譲位し上皇になります。これは最年少記録です。

第八十代  高倉(タカクラ)  1168~1180  第八十一代 安徳(アントク)  1180~1185

第八十二代 後鳥羽(ゴトバ)  1183~1198

高倉天皇は7歳で即位します。

後白河上皇と平慈子の間に産まれた

平家血縁で最初の天皇です。

 

後白河上皇と平清盛 争いに勝ち残った

実力者2人の利害が一致した動きでした。

しかし、以降ははげしく要職の取り合いと派閥抗争を繰り広げます。

そんな中で、両者の緩和剤の役割であった平慈子が亡くなります。

 

両者の衝突は避けられないものとなり、度重なる軋轢の末に、平清盛は後白河上皇幽閉を決断します。【治承三年の政変】

その後、高倉天皇は親政を行う間もなく譲位させられ、安徳天皇が即位します。

安徳天皇は高倉天皇と平徳子の子で平清盛の孫にあたります。 

 

上皇を幽閉し、皇位継承を思い通りに操る清盛のおこないに、朝廷からも非難の声が多く遂に反旗を翻すものがあらわれます。以仁王(モチヒトオウ):後白河上皇の息子です。

平治の乱で没落し方々に離散した源氏に「打倒平氏」を呼びかけ挙兵します。

以仁王はすぐに鎮圧されますが、呼びかけは源氏決起への不穏な動きにつながります。

そんな中、清盛は400年近く続いた平安京から福原京へ遷都計画を周囲の反対を押し切り実行しようとしますが、各地でおきる反乱対処の為、遷都中止を決断せざるを得なくなり

更に、高倉上皇が崩御し、停止していた後白河院政を復活せざるを得なくなります。

失意の中、1181年、平清盛は病に倒れて亡くなります。

 

1180年以仁王の挙兵により始まり、東国で源頼朝の挙兵など戦乱は各地に広まります。

1183年北陸の源氏勢力として挙兵し都の食糧事情に大きな脅威となっていた木曾義仲を討伐するために、大軍で攻め込んだ平家でしたが、総大将  平維盛俱利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで大敗します。

数万の兵を失った平家は、その後も敗走を続け、遂に平安京を放棄 安徳天皇と三種の神器を持ち出し、 四国:屋島に本拠地を移します。

後白河上皇は自分が幽閉中に清盛の意向によって即位した安徳天皇の正当性を認めず、天皇の即位の儀式に必要な三種の神器を欠いた状態で、強引に後鳥羽天皇を即位させます。

1183年~1185年の3年間 安徳天皇と後鳥羽天皇が同時に存在しました。

1185年 源義経の奇襲により屋島が陥落すると、いよいよ平家は逃げ場を失います。

最後の決戦「壇ノ浦の戦い」

平氏は滅亡し、安徳天皇も6歳、最年少で

平清盛の妻で自身の祖母にあたる平時子に抱かれ入水、崩御します。

 

海になげだされた三種の神器は、

源氏の必死の捜索により

「八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)」と「八咫鏡(ヤタノカガミ)は発見されましたが「草薙の剣(クサナギノツルギ)」は行方不明になりました。

 

貴族の時代(平安時代)が終わり、武士の時代(鎌倉時代)が到来します。

後白河上皇はその後も朝廷の権威を守る為、暗躍し続け 源頼朝とも渡り合うのです。

 

ここまでを「天皇」前編 とします。

第一代 神武天皇から 第八十一代 安徳天皇 と 第八十二代 後鳥羽天皇 の時代をみてきました。 ある意味、ここまでは天皇率いる朝廷の中央集権でしたが、ここからは武家勢力との権力構造の二極化が長く続きます。

「天皇」を語る上での重要なターニングポイントです。

 

それでは「天皇」後編 をおたのしみに!

 

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