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『グリーンブック』も見た

ホントは発表の前に落ち着いた雰囲気の中で静かに見たかった。

第91回アカデミー賞が2月24日(現地時間)に発表され、『グリーンブック』は「作品賞」と「助演男優賞」「脚本賞」の3部門を獲得した。日本では3月1日から公開されたが本来ならばこの手の作品にこれだけの観客が集まるような事はないように思うが凄い混雑だった。そういえば『ボヘミアンラプソディー』がまだ上映していて驚いた。相当なロングランである。こちらは「主演男優賞」「編集賞」「録音賞」「音響編集賞」の4冠である。ちなみに前回映画紹介した

『女王陛下のお気に入り』のアン女王役オリビアコールマンが「主演女優賞」に輝いている。 さて、本題にもどろう

一言で言うなら「期待通り」それ以上でも以下でも無かった。それだけ鉄板ネタである。ヒューマンドラマとして最高の題材を見事に描いていた。

 

人種や民族が混じり合う生活経験の少ない僕らが、他民族に抱く印象や感情はどこで養われるのだろうか・・・?その知的レベルは世界基準に達しているものなのだろうか・・・? そんな事を思い見ていた。

 

混じり合う生活経験が少ないと書いたが実は大噓である。肌の色や容姿の違いはそう無いが、民族の融合を僕らも歴史的に経験して来ている。残念ながら僕らの歴史は、この『グリーンブック』のようにハッピーに笑いを交えた描き方をされる事はまず無い。係わるもの全てが重く口を閉ざし、話題を避け、議論をすり替える。いわゆる「タブー」から抜け出せていないのである。

 

問に戻ろう、他民族に抱く印象や感情を何で養うか?・・・僕は「映画」と答えるだろう。合っているかどうかは別にして、僕は世界中の国や民族に対して、行った事も会った事も無いのに印象や感情を持っている。それは「映画」や最近では「インターネット」で修得した情報によるところが大きい。イタリア系アメリカ人の印象はこの映画で更に固まったし、「映画」でこれまで得た知識などでラテン人やイタリック人について本一冊書ける位の感情はもっている。

その知的レベルは世界基準に達しているものだろうか?・・・この問いは深い。

そう遠く無い将来に「国家」などという概念は破綻すると僕は思っている。

「スタートレック」が描く地球体制は飛躍し過ぎかもしれないが、欧州の人々が

一足早く進み経験している「融合」の試みには尊敬の念を覚えるし「歴史のクリエイター」としての役割を充分に果たしていると思う。また歴史の転換期に欧州と共に一大勢力として登場する「中国」もゲートイン出来ている。残念ながら、異文化の凄み(かつてのシルクロード)や(共産主義)のようなインパクトは失っているが、人口の多さが何よりも大きな力である。

人種差別や民族浄化に立ち戻る事は今更、ヒューマン「人」自体が許さないのは明らかだろう。これは「国家」だとか「民族」の常識でなくヒューマン「人」

そのものの「心の常識」である。だが、人は集団になると この「心の常識」を捻じ曲げ、時には裏切る。「心の常識」✖人数   ≠「集団の意思」なのである。

この集団の都合、図式は今も昔も変わらないのである。

現在欧州では右派政党が力を強めているというが、これが人種差別や民族浄化に即つながるとは全く思わないが、日本のマスコミはそんな見方でしか「欧州」の人々が直面している「産みの苦しみ」を伝えてくれない。また、ある意味、アメリカ合衆国と南米大陸経済圏の繋がりや未来の形を欧州にならい、新たに構築する為に踏み出すと考えると、トランプ大統領の行動も「産みの苦しみ」と言えなくも無いが、日本のマスコミは一様に「小馬鹿にしている」こうした誤解や無知が「テロリスト」を産み育てるとは思わない所に日本のマスコミの無責任さがあると僕は思う。

少なくとも「いじめ」問題や「高齢者への振り込め詐欺」「セクハラ・パワハラ」など家族や身近なコミュニティーへの道徳心の欠落が招く事件がトップニュースになり、都合の悪い問題を、裏でコソコソと処理して公にしてこなかったツケを。戦後74年もたってから相手国に蒸し返されて堂々と対処できないような「国家」に馬鹿にされる筋合いは無いと「アメリカ国民」は思うだろう。

 

日本が「平和ボケ」を自認して久しいが、マスコミの責任は大きいと僕は思う。『世論と民意』がこんなにも低次元に軽んじられている国は無いのではないか、それでも変わらず明日は来るから「まぁいいか・・・」こんな感じだろうか?

僕らの親達は敗戦という憂いの中から立ち上がり、復国の礎となってきた。

復興が何よりも優先された為、不得意な事が後回しにされ、得意な事に能力が集中された。皆、勤勉に働き、倹約に励んだ。その結果、驚くべきスピードとパワーで復興を遂げた。そうした中で不得意な事、後回しにされた事とは、利害の一致しない相手との協調や折衝、主張の調整や駆け引きなど、いわゆる「政治」である。これは「行政」とは違う。当時、国内は復興に向けて一枚岩だから、「親方、日の丸」の精神は健在で国家引いたレールの上を国民はひたすら走った。だからある意味、行政は機能したのである。それが戦勝国に押し付けられたものだとしても行政はいびつな仕組みを作って目先の目標達成の為のレールを引いた。これに異論を唱えたのは「学生」だけだった。その「学生」もほんの一部を除いて、卒業のタイミングで社会に順応していった。

日本は島国である。歴史的に見ても侵略の脅威にさらされた経験は少なく、極端に警戒心や猜疑心が低い民族である。世界が利害をぶつけ合っている時代にも

殻に閉じこもり自国主義を謳歌してきた。政治・外交力を養うような土壌は全く無かったのである。その中で唯一、世界の常識に触れて、それまで放置してきた「タブー」と向き合うように促したり、防衛だとか外交といった「政治」について、まともな見解を国内で一心不乱に働く国民に紹介する事が出来たのはマスコミをおいて他に無かった。不幸な事に、本来ならば「国益」とされるべきそうした議論は「異端」とされ「国営放送」から締め出されるものである。だからこそ「民放」が積極的に覚悟を持ってのぞまなければならないのであるが「民放」は真っ先に役割を放棄し、率先して低俗な娯楽を垂れ流しし続けた。その時間が50年近く経過してインターネットの普及と共に「テレビ」も「新聞」も必要とされない存在になった。 

僕は『グリーンブック』と『それを見に来た観客』を見て、ぼんやりとですが、こんな事を思っていたのです。

・・・かなり脱線してしまいました。悪い癖です。もうやめますごめんなさい。

 

『映画』には作者の意図とは別に観客の感性が作用する。『グリーンブック』は

アメリカが自らの力で乗り越えてきた「人種差別」という負の歴史の断片と、「友情」という人の根源的な愛についてとりあげたヒューマンドラマだが、

アカデミー賞、それも作品賞と脚本賞の栄冠に輝いた事で、集まったであろう人々を横目で見ながら、僕個人は正直「プロバガンダ」を見ているような少し嫌な気持ちになった。 あっ!また書いちゃった。ほんとやめます。

 

この映画面白いです  BLOG  『マリアカラス』  『女王陛下。。。』  

 

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